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角川『短歌』2020年4月号

①中西進×永田和宏「『令和万葉集』の意義」〈永田「『万葉集』は貴族層だけのものではない。豪族を含めた民衆の歌だ…」 中西「『万葉集』の中に東歌がある…民衆の言葉で、そのまま載せている…」〉これを読むと、永田は豪族<民衆、中西は東歌=民衆の歌と捉えているようだ。

②『短歌研究』と『短歌』という、それぞれ別の総合誌の記事から引いたので、論点がきっちり噛み合っているわけではないが、品田悦一の言うように「東歌=豪族の歌」という点で合意ができたとしても、「豪族≒貴族」と取るか、「豪族≒民衆(庶民)」と取るかで万葉集の理解が変わってしまう。

③一方は、『万葉集』には庶民の歌なんか無い、となり、もう一方は、天皇から庶民まで、となる。こういう違いってすごく興味深い。論点を絞って、鼎談してもらったら面白いんじゃないだろうか。

人生は苦しみでせうとだれか言ひフォークからまた逃げるひよこ豆 米川千嘉子 カフェで誰か知らない人の言葉が耳に入る。作者はそれに同意するようなしないような、何か自分の気持ちが掴み切れないような感じで、もどかしくひよこ豆が逃げていく。

褒められたき日の息子なり山雀はオレンジの胸ふくふくと来る 米川千嘉子 胸を反らして立つ鳥はどこか得意げ。目立つオレンジ色なら特に。作者はそれを幼き日の息子と重ねる。褒めてほしそうに母の前にいた息子。褒めたのだろうが、もっと褒めればよかった、と思っているのだ。

リコーダーも持つて帰ると子は決めて「さびしい時に吹くから」と言ふ 大口玲子 「自由」28首より。自由は常に寂しさと隣り合わせではないのか。自由であればいつも寂しいのでは、と思うのは大人の身勝手か。「子」はいつリコーダーを吹くのだろうか。

2020.4.11.~2020.4.12.Twitterより編集再掲