『塔』2020年6月号(3)

艶めいた百段階段登り行き明治の雛の小さき手を見る 高鳥ふさ子 一連から柳原白蓮の元夫が白蓮のために集めた雛だと分かる。全1100体だとか。使い込まれて艶の出た、おそらく木製の階段を登ったところにある雛飾り。想像すると圧倒される。元夫からも愛されていた白蓮の一生を思う。

この短歌で思い出したのだが、私も雛人形が集められているのを見に行ったことがある。滋賀県の日野町というとても素敵な町。各時代のお雛様を見て感動。お雛様の顔には時代の流行があり、私が典型的お雛様と思っていたのは、単に昭和のある時期の顔だと知った。

思い出さなくなったっていいんだよ雲ひとつぶん先で待ってる 小松岬 とてもセンスのいい一連。ちょっとぶっきらぼうな話し言葉が、内気な内面が表現される時の特徴になっている。「思い出さ/なくなったって」という句跨りが、現代的でしゃれてる感じ。韻律感も時代で変わる。

君が腕の重さと一緒に置いていく白いセーターに一本の髪 永田玲 作者は白いセーターを着ており、「君」がそのセーターに、腕の重さと一本の髪を置いていく、と読んだ。今、腕は自分の身体の上から離れて行ったが髪はセーターの上にあり、それが腕の重さと同じ重みを作者に与えている。

欧州を覆いしペストを知らしむる塔あまた見き欧州の旅 今井由美子 イタリアで財力を誇るために建てられた塔をたくさん見たが、ペスト終焉を祈念して建てられた塔が中欧には多くあるらしい。コロナ禍の最中に昔見た塔を思い出したのだ。事が事なのだが、旅情も誘われる歌。

ふかいふかい夜ならきっと赦されるわたしの肌をぬすんだことも 滝川水穂 誰が赦すんだろう。「わたし」の肌をぬすんだんだから、赦すのは「わたし」なんだろうか。でも何となく、大きなものに赦されるような印象。そして「わたし」も一緒に赦されるような。恋愛の混沌を感じさせる歌。

不意討ちに「お義母さんに似てきた」と言われましてもどうしたものか ひじり純子 これは誰が誰に言ったのか難しいなあ。選者は娘婿が娘に言ったと取っているが。同居してると他人でも似てくることがあるから、夫が作者に言ったと取りたいが、それだと「 」が邪魔。面白く難しい歌。

ここまで書いた時点では、夫の母親と取っていた。だから、作者すればお義母さんだが、夫が「お義母さん」と言ったら変だと思っていた。しかし、今、作者の母親ではないか、という説を聞いた。つまり夫からすれば「お義母さん」だ。それかな…。

「あなたこそお義父さんに似てきたよ」と言い返しても効果の薄い ひじり純子 次の歌がこれ。夫に対して、夫の父(作者の義父)に似てきた、と言っているのだろう。夫は全く気にしていない様子だ。

わたくしの奥底の雪を取り去れば今も桜が散つてをります 橋本牧人 心の奥底に固い雪のように積もっているものを取り去れば、桜が散っている。散る桜は、強く心が動いている象徴に思える。例えば哀しみ。それを感じないための雪か。取り去ることもできるのだが、今はまだしないのだ。

㉔方舟「子供は誰が」川本千栄 自己宣伝ですが、2019年11月号の評論「家族はどのように詠われてきたか」を書いた時の、こぼれネタ的な話を方舟に寄稿しました。お読みいただければうれしいです。

2020.7.2.~7.5.Twitter より編集再掲