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角川『短歌』2024年8月号

雨を見ているときだけ雨の音がする雨はいつでもここを降るのに 川上まなみ 認識のあり方の歌。雨を見ている時、つまり雨を意識している時は雨音が聞こえるが、それ以外の時には聞こえない。「ここを」の「を」の使い方に工夫がある。

宗教も風土の歴史もしらぬわれを子供の泣き顔ぐわんぐわん叩く 米川千嘉子 欧米人のガザへの対応と日本人のそれとの違いが自分を通して詠われる。自分の身についたものも、存在を賭けるものも、何も無く、ただ子供の泣き顔に感情を揺さぶられているという解釈だ。

たまにガザをおもひ出してうたふことは何 無意味の箱に溜まりゆくうた 米川千嘉子 ②の歌は提示だけだが、この歌は強烈な批評性を持つ。安全な場所からたまにガザを思い出して詠って、それが何になるのか。「無意味の箱」とまで言う。題詠的社会詠への批判だろう。

ひるがほのからだ巻きつき花の咲くケーブル垂れて梅雨のなかぞら 米川千嘉子 梅雨空を背景に、垂れたケーブルに昼顔の蔓が巻きついて花が咲いている、という場面。この歌の眼目は「からだ巻きつき」の部分だ。蔓のように細い人体が巻きついているような印象だ。

⑤栗木京子「湯呑み茶碗の真実」
〈三者の現場報告は微妙に異なる。(…)ただ、一点だけ共通しているのは、折口信夫が湯呑み茶碗を持ったまま中山太郎に罵声を浴びせたことである。〉
 人間の認識に関する興味深い考察。同じ場面を三人の人が記録に残しているが、何をどう言ったという肝心な部分が三者ともに異なる。しかし折口が人を罵倒した時に、湯呑み茶碗を持ったままであった、という本筋から外れた部分は皆ぴたりと記憶が一致する。聴覚的記憶より視覚的記憶が残りやすい、とも言えるが、内容に関わらないから記憶に残ったとも言える。
 まあ、激怒のあまり持っていた湯飲み茶碗を置くのも忘れた、というのはかなりインパクトのある姿だ。何をどう言ったの部分も、一人一人の証言はそれなりに筋が通っているのも、何だか人間の記憶の不思議さを見る思いがする。

でもみんな何者かとして生きていて それだけで夏がうつくしく果てる 渓響 何者に二重の意味がある。何者でもない、というのが一般人の悩みなのだけれど。そんな一人一人でも「何者か」としての存在の重みはある。その自覚を持った時に、下句の感慨が訪れる。

その度に、すこし、私は。自白するように桜は蕾をひらく 大原雨音 句読点を駆使した上句。どの度に、どのぐらい少しなのか、具体的なことは何も分からないが、何かを吐露することに繋がるのだろうか。桜が少しずつ咲く様子とも重なる。自分に引き付けて読んだ。

⑧「U-25短歌選手権 選考座談会」
盗蜜といううつくしき執念に駆り立てられて熊蜂たちは 早瀬はづき
小島なお〈花粉は付けずに蜜だけ盗む。責任を負わずに性を搾取する。そういうことが、人間だけじゃなくて動物にもある。人間の話にするんじゃなくて熊蜂の生態を示すことで、性別を持って生きることの痛ましさが余計に実感される気がしました。〉
 とてもいい読み。歌の良さが引き立てられる。挙げられている他の歌も魅力的。とても上手い歌ばかりでびっくりする。

止しなさい暴力をまた暴力の想像をガス室を想像することの暴力を 市島色葉
小島なお〈アウシュビッツのガス室で亡くなった人たちのことを思う、その想像することさえも暴力なんだと。今、ガザ地区は包囲されているから、逃げられない状態であるっていうことが一番悲惨なわけですけれども、ある意味ではガザ地区も一つの大きな密室なのかなと思って、アウシュビッツがここで引用されていることに意味を感じます。〉
 小島の読みに戦慄を覚えた。ガザ全体が大きなガス室だって?私もそう思ってた。でも小島に言われるまでは言語化できてなかった。

⑩穂村弘〈作者が172人いるわけだけど、そういう感じはしないですよね。20人ぐらいって感じで。(…)僕にはわからない何か理由があるのかもしれないんだけど。言葉選びとか、絶望感の質が似ている。それは当然なのかな。「時代は感受性に運命をもたらす」っていう堀川正美の詩の一節もあるから。その中での比較になると、やっぱり上手いか、テーマがあるかっていう事になる。両立できればもちろん最高。〉
 時代の傾向っていうのは絶対ある。それは後になって気づくことが多いけど、今回はその時その場で共通点が感じられるということだろう。

⑪栗木京子〈穂村さんがそんな増えた気がしないっておっしゃったのに同感で、何倍にもなったというよりは、既視感が強くなったなっていう印象はありましたね。ただその中で非常にレトリックが先鋭化してきて、よりうまい歌が増えたなっていう、精度が上がったっていうのは思いましたけれども。むしろやっぱり今回優勝、準優勝になったようなテーマがあって、それがどっちかというと取ってつけたようなテーマじゃなくって当事者として自然ににじみ出た、そういう気持ちを一つの核に据えたというね。そんな一連で良い作品が増えた気がしました。〉
 上手い歌・秀歌を目指すと既視感が出て来る、というところに考えさせられた。連作としてのテーマ、それも題詠的なその時その時のものではなく、「当事者として自然ににじみ出た」テーマがあるものが、連作として印象に残る。これは本当に近代短歌以来ずっと目指されているところだ。

⑫穂村弘〈テーマ性、それから秀歌性という話が出たけど、本当はそこにもう一つ要素があって、それは文体の開発。新しい文体を切り開くっていう要素なんですけど、これが一番ハードルが高いんですね。〉
 応募者の文体が似てくる問題について。
穂村〈みんなが基本的に秀歌性を目指すからなんだよね。つまり、いい歌を作ろうとするからこそ似てくる。秀歌性っていうのは共同体が練り上げてきたものだから、それを踏まえた人は基本的に全く変なところに球は投げない。みんなが秀歌という的に向かってことばを集めるから、結果的にゾーンが狭まるっていうことがある。〉
 短歌の共同体が練り上げてきた秀歌性を学んで練磨すれば、結果的に文体が似てきてしまう、というのは恐ろしい話だな。でも表現は違えど栗木も近いことを言っていると思う。

⑬穂村弘〈僕がよく思うのは与謝野晶子と石川啄木と斎藤茂吉の歌をばらばらにシャッフルしても元に戻せるってこと。(…)でも、現代の人気歌人をシャッフルしたらどうかな。〉
栗木京子〈難しい…。〉
 文体の特徴を出そうとして小手先の操作をするのではなく、体感として感じられるぐらいの文体の個性が欲しいということだろう。作風とも言い換えていた。時間が経てば似たような文体は淘汰される、だから同時代はまだ分かりにくいのだとも思うが、今回の穂村の発言は説得力があった。この続きも面白いのでぜひ読んでほしい。

⑭「特集 没後七十年 これからの中城ふみ子」
川本千栄「二つの絶望」
〈彼女の歌が強さを獲得した根底には二つの絶望がある。絶望が彼女の歌を研いだのだ。〉
 論考を書かせていただきました。大好きな作者の一人です。ぜひお読みください。

2024.8.25.~30. Twitterより編集再掲


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