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『短歌研究』2021年8月号(2)

⑥「歌と芸」村上湛〈調べというのは煎じ詰めれば身体性だと思います。外在的であるにせよ内在的であるにせよ「声の力」ですね。(…)音声性、音楽性の問題です。〉馬場あき子の歌には肉声の響きがある、とも。「調べ」は言語化が難しい概念だ。この村上の発言は説得力がある。

⑦「歌と芸」村上湛〈言語化、定量化できないものが調べの本質であるということですかね。(…)言語化、定量化できないからこそ、俊成はさまざまな実作例を証歌として示すことで人々に感得させようとする。一つの共有的な感性を幻視する。〉言語化できないから例で示す。調べに限らず、言語化できない魅力というのはやはり、例歌を通して伝えるというのが大きな手段なのだろう。村上の、共有的な感性を幻視、というまとめ方がいい。幻視、なのだというあたり。

⑧「歌と芸」村上湛〈塚本の調べは馬場さんのような謡曲ではなくて、浪花節に通じるような、もっと一般的な歌謡です。〉塚本邦雄が浪花節って…。浪花節にしても、昔のはやり歌にしても、自分はそれを知らないから類似を指摘できないのだなあと思う。

⑨「歌と芸」馬場あき子〈言葉というのは、朗読の声によって本当は生きるんです。殊に関西の文学はそうで(…)こういうのを関東声、関西声と言うのでしょうか。古典をよむ時、よく考えますね。〉文字にすると同じ言葉でも、アクセントとイントネーションで全く違う響きを持つ。そういう、音声にしか無い特徴は文字化できないと考える。だから方言を書きとったものでも、文字化では一部しか再現できないと思っている。方言は音声でしか伝わらない。だから短歌でも、方言を取り入れるのには、かなりの慎重さが必要とされるだろう。

⑩「歌と芸」村上湛〈身体性というものは戯曲にも散文にもある。ましてや短歌だったらもっともっとそれが論じられなければいけないのではないでしょうか。〉身体性、肉声。それらのものを文字で書いた短歌の中で感じさせるには、どうすればいいのだろうなあ。音読か?手始めは。

⑪「歌と芸」馬場あき子〈口語は『万葉集』にも入っているし、『古今集』にだって入っている。和泉式部なんて口語がぐちゃぐちゃ入っている。だからずっと、口語を入れてもいいと思っていました。〉口語には「現代語」「話し言葉」の二つの意味があるが馬場は後者で使っている。「その時代の現代語」という意味で使っている可能性もあるが、それだとわざわざ言わないと思うので、「話し言葉」と取った。
 この二つが「文語口語」の話をする時に、人によって混同して使われている。

 「歌と芸」、非常に面白い座談会だった。特に村上湛の碩学っぷりとズバッと中心を射貫く論点、短歌の実作者以上に短歌に愛を注いだ言葉の数々に思わず胸が熱くなった。最近、色々な総合誌の実作者で無い人との対談や座談会が面白い。

⑫米川千嘉子〈二十二歳の晶子はすでに「男きよし」「男かわゆし」と鮮やかに断言し(…)同時に、ここにある男性賞翫の眼差しは、明治の現実ではなく、〉安田純生はこれらの晶子の歌には都々逸の影響があると述べていたと思う。資料がすぐ出せないのではっきり言えないのだが。

2021.9.8.~10.Twitterより編集再掲