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『現代短歌新聞』2021年4月号

すり替えて何かを言った気になって修辞の葉先は黄ばみやすいよ 永田紅 うーん、鋭い。修辞ってそういうものかも知れないな。上句全部が批評になっている。でも下句が、比喩という修辞なんだけど。古い歌の古い修辞は確かに黄ばんで見える。

眼裏にきみの裸体を彫る 風が日暮れの木々をぞわぞわ撫でて 田村穂隆 君の裸体を目の裏に彫り付けるようにして見る。記憶に刻み込むために。風が木を撫でるようにお互いの身体を撫でる。ぞわぞわと…快と不快が入り混じる。人を刺し自分も刺すようなひりひりする感性。

③今野寿美「『みだれ髪』刊行から一二〇年」〈刊行以来『みだれ髪』評価は両極端であったうえ、変遷をたどった。(…)(晶子には)女性が虐げられる社会構造を訴えるといった意識はうかがえない。女権論の立場から『みだれ髪』の抵抗意識を探る際、論者はこういう『みだれ髪』の一面を素通りしてしまう。主張のためには、あえて目を向けない〉これは他の歌集にもある。時代に都合のいい側面を取り出して大きく評価すれば、その歌集の価値基準さえ変わってしまう。どういう歌集で、さらにどういう歌人なのかがブレるということだ。

 以前、書いたことがあるが、渡辺直己は戦前、アララギ戦地詠の花形だったが、戦後、評価が180度変わって、反戦歌人、ヒューマニストとされた。本当の直己はそのどちらでもないと思うのだが。『万葉集』も価値基準が変わった大きな例だ。

④今野寿美〈「みだれ髪」をはじめ『みだれ髪』のことばや表現に俗謡からの取り込みがあることは、歌誌「白珠」誌上での安田純生による詳細な例証がある〉安田純生ほど近世和歌と近代短歌の接続部分の面白さを語れる歌人は現歌壇にいない。まさに碩学。話もとことん面白いし。

〈和歌でタブーの身体語、手だの肌だの唇まで存分に詠み入れた。これも古歌の表現様式や作歌法を学び、型どおりに詠む和歌の窮屈さに晶子が反発したからだ。〉晶子が近世的大衆文芸を取り込んだ例をもっと読みたい。挑戦した和歌の側の話も。タブーを知らないとタブーを破れないのだから。

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2021.5.6.~7. 5.21.  Twitterより編集再掲