批評用語の持つ力(前半)【再録・青磁社週刊時評第十九回2008.10.20.】
(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
批評用語の持つ力(前半) 川本千栄
2008年9月27日、京都で行なわれた、吉川宏志評論集『風景と実感』の批評会に行ってきた。評論集の批評会は機会が少ないことに加えて、限られた時間内で分厚い内容の一冊をどのように批評していくのか、進行が難しいであろう、と思いつつも、期待するところも大きかった。
批評会のメインは鼎談であり、メンバーは、「塔」の松村正直と、「かりん」の川野里子、京都大学人間・環境学研究科教授で短歌評論サイト「橄欖追放」を運営する東郷雄二であった。松村は、先行の篠弘や佐佐木幸綱の評論を挙げ、吉川の評論のそれらに重なる点、新しい点を指摘した。東郷雄二は、吉川の実感を保証する身体性と視点について、認知言語学の立場から論じた。川野里子は穂村弘の『短歌の友人』と吉川の『風景と実感』の類似点・相違点を通じて、それぞれの評論集が現代短歌の読みにもたらす意義を語った。
三人の論はまずまず上手くかみ合っていたし、色々面白い問題点も出されたのだが、私には全体的に今一つ消化不良感が残った。その主な原因は川野里子が、吉川の評論を常に穂村と対峙する形で語ったからではないかと思う。川野曰く、吉川と穂村は現歌壇の二つの大きな潮流のそれぞれオピニオンリーダーとして対峙的に扱われることが多いが、意外に問題としているところは共通なのではないか。評論においては、吉川はそれを「実感」と呼び、言葉で表現された自然・風景に沿って、作者の身体性を感じ取ろうとするが、穂村は、「棒立ちの」「フラットな」言葉で表現された、「ただ一度きりのリアル」な歌を評価する。吉川の論の良さは、評する歌に時間・空間が含まれるときに発揮され、穂村の場合は時間を捨象して、「この瞬間」に限った歌を評する時に良さが発揮される、というのが川野の分析の大意であったと思う。
こうした二項対立は非常に論点を明確にするし、なるほどという感覚を聞く者に持たせる。確かに吉川も穂村も同じものを指して、一方はそれを実感と言い、他方はそれをリアルと言っているのだという指摘は腑に落ちる。ただ、今回私が問題だと思った点の一つは、議論がそこから奥へあまり行かなかったことである。その類似点・相違点を踏まえた上で、さて吉川の論は近現代の短歌を読み解く上でどこまで有効に働くのか、という点に話が及ばないと『風景と実感』の批評会としては食い足りない。
また、二項対立に先立つ話ではあるが、吉川と穂村では批評に使う用語にかなり隔たりがある。穂村は批評用語を盛んに造語する。今まで使われている用語では自分の言いたい事を表せないからかも知れないのだが、論を読むものは、穂村の作る用語の表さんとするところをまず探ることからしなければならない。それが「圧縮と解凍」「棒立ちのポエジー」などならまだ何とか私も分かるのだが、「酸欠世界」や「愛の希求の絶対性」など多義的なものになってくると、何を指しているのかが曖昧すぎて理解に苦しむ。
(続く)