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憧れは挫けてこそ失われず

先日Twitterで大好きな歌手の話をしたら、「私も大好きだ」とご連絡をくださった方がいた。うれしくてわぁわぁと返信で騒ぎたてた後、そういえば大好きな気持ちを向き合って文章化したことがなかったな、と思った。最近、「好きだと思った気持ちを文章化すること」の尊さや有難みを教えていただいたばかりなのだ。うまくできるかな。やってみよう。



わたしは小学生の時に知ってから、ずっと鬼束ちひろさんが大好きだ。アルバムやシングルをほとんど持っていた。CDに触れる機会がなくなった今も、鬼束さんのものだけは大切に残してある。

小学生のとき、というか今でもとおく理解の及ばない範囲にあるその歌詞を、神々しく思っていた。神話のようだと思った。
ご本人の声や気迫や歌い方、全てが大好きなのだけど、今回は歌詞の話を。小さな頃から曖昧に美しさを感じてきたそれを、いまは文字にできるだろうか。



失う時が  いつか来ることも
知っているの  貴方は悲しい程
それでもなぜ生きようとするの
何も信じられないくせに
そんな   寂しい期待で

( 私とワルツを / 鬼束ちひろ )



詩的で少し難解で、耳に入るどんな曲の歌詞よりも曖昧で、そして感じる余白があまりに大きい。
聞いていると、ストーリーが掴めないのに共感できたり、わけも分からず涙が出たり、不思議なことばかりだった。

わたしが思うに、胸に湧き上がる「激情」や「衝動」というのは、たったひとつの単語で表せるものではなく、けれど説明的でもない。奔流に浮んでくるあぶくのように次々絶え間なく、なかば無秩序に現れる、様々な感情の集合体だと思うのだ。その、複雑に現れる感情ひとつひとつを丁寧にすくい上げて、1つの紙の上に並べると、普通なら隣り合わないような言葉たちが散りばめられる。それらを組み合わせて文章にすると、教科書的な日本語と比べて、違和感にも似た" ズレ "のようなものを感じることになる。そして強く印象に残る。

わたしはそのズレをとても美しく感じてきた。入り組んで、いろんな感情が湧いては消えていく、そんな「心のうちがわ」の正しい表現に思えたからだ。たったひとつの思いを語るために掬い上げられた無数の無秩序な単語たち。それこそ、こころと同じじゃないか。

だからきっと、歌詞のストーリーや意味が頭で理解できなくても、こころにはすとんと降りてくる。響くのではなく、降りてくる。同質だからだと思う。


貴方の放り投げた祈りで
私は茨の海さえ歩いてる
正しくなど無くても
無くても 無くても 無くても

( 茨の海 / 鬼束ちひろ )



読書が好きで、たくさん本を読んできた。でもどんな本よりもたくさん、鬼束ちひろさんの歌詞カードに触れた。

目に見えない、手の届かない部分にある「こころ」を、どうしてこんなに緻密に、可視化できるのだろう?
わたしが文章を書くことを始めたのは、この方の歌詞に出会ってからだ。わたしは「感情ひとつひとつを丁寧にすくい上げられる手」がずっと欲しかったし、不快ではない「違和感やズレ」を作れるようになりたかった。


美徳は「信じて裏切る速さ」だと言うのに
何故まともでいられないの?

( 嵐ヶ丘 / 鬼束ちひろ )


当然わたしは、なれなかったけど。
「想像は文章の余白で行われる」というけれど、「真白を描く」ということほど、難しいものはないと思うのだ。見様見真似で白い絵の具を塗りたくったって、その下に塗りつぶされたものを誰かに正しく想像してもらうことは、わたしには不可能だった。だから説明的にたくさんを書くしかなかった。


感情を掬い上げる手もなくて、真白を描く力もなくて、途方に暮れてもまだ、わたしは文章を書くのが好きでたまらない。憧れたものに届かないことも、届かなくても辞められないことも苦しいのだけど、きっと苦しみながら両方愛するのだと思う。

いつまでも憧れて、そして大好きなことをやめられないで、何度でも歌詞を読み返して、届かないことを確かめるのだろう。



温かく愛おしい声も
増えてく擦り傷にさえ
敵わなくなって
だらだらと残した
わずかな奇跡を
何度も振り返り確認したり

( Cage / 鬼束ちひろ )



完全に挫けても憧れは消えず、むしろ永遠になってしまった。私にとって神話のようなひと。

こんなに偉そうに書いたけど、これは拗らせた1ファンの胸の内で、冗長なファンレターである。
大好きです。これから先も、応援しています。

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