「ちよはち商店」開店までの軌跡 vol.1 / アフリカ-マダガスカルに移住!?
こんにちは。ちよはち商店代表の田中と申します。
記事をご覧いただきありがとうございます!
前回、第1回目の編集部からの投稿では、私たちが今後何をしていきたいのか、また、どのようにしてみなさんと繋がっていきたいのかについてお話しました。
公開前の予想を超えるご反応をいただけたことで、私たちの思いに共感・応援してくださる方々への感謝の気持ちが芽生えております。
加えて、今後の活動を通してみなさんに彩りある日々を届けながら、鹿児島や南九州へ少しでもポジティブな影響を与えられる、私たちなりの形を築いていきたいという思いを強くしているところです。
第2回目の記事となる今回は、代表である私、田中の自己紹介の機会として、私の人生の中でも非常に振幅の大きな期間であった直近5年間でも、ターニングポイントとなった時期や出来事を振り返っていきたいと思います。
タイトルにもありますように、私は最近2024年4月までは、日本を離れてマダガスカルというアフリカの島国で働いておりました。
今回は、なぜマダガスカルという、多くの日本人にとってなじみの薄い、遠く離れた国に行くことになったのかを書いていきたいと思います。
長めの文章になりますが、目を通していただければ嬉しいです(それ以前の経歴については後日少しづつ書いていければと思います)。
営業マンとして充実していた5年前。
2019年春、新年度に入った頃でした。当時私は、とある農業資材メーカーの営業マンをしており、茨城県の農業地帯で特に肥料の販売の推進を担っておりました。
毎日朝から晩まで卸先や農家さんを訪問し、そこの方々とひざを突き合わせて話を伺っては自分ができることを考え、ガムシャラに提案を繰り返していく毎日を送っていました。
営業担当として2年目に入ったタイミングだったので仕事には慣れてきていました。
そして何よりも、鹿児島出身の私にとって、縁もゆかりもない地域(非都市部)に住みながら、その土地の言葉や慣習に触れ、そこで出会った方々に仕事以外にも何かとお世話になっており、その地域伝統の催しに参加させていただいたり等、多様な経験を積ませていただけることに大変な喜びを感じていました。
営業職のみならず多くの方が経験することかと思いますが、人間関係を構築する難しさ感じたり、理不尽な出来事もあったりと全てが順風満帆だったというわけではありませんでした。
しかし、その地での出来事一つ一つが自分の人生の幅を広げる貴重な学びとなっているという感覚があり、お客様をはじめ周囲の方々からの𠮟咤激励を受けながら、実り豊かな日々を送ることができていました。
現時点で振り返っても、今の私を形作るうえで欠かすことのできない、他に代えがたい時間を、たくさんの方々の支えの中で過ごさせていただきました。
充実した日々を失う選択をしてでも追い求めたかった経験。
そんな学びの多い、大きな不満の無い日々を送りながらも、また、それがとても有難いことなのだという事実を頭では理解していても、心の中にひっかかる何かがあることを、営業職として働く中でその頃には自覚してきていました。
当時、取引先や農家の方々がよく話されていた次のような言葉。
「生産者も多くが高齢になってきているし、作付面積も減らすから今年はそこまで(昨年ほどの肥料は)必要ないかな。でもあなた(田中)は来てくれるし、(仕方なく)"協力して" 買ってあげるよ」
そんな言葉を耳にするたびに、私は、自分には到底コントロールできない農業生産をとりまく現実と、セールスマンとしての立場に板挟みになりながら複雑な心境になっていました。
「自分はこの仕事を通して、真の意味でお客様(卸先や農家さん)のことを考え、ひいては世の中のためになる提案ができているであろうか。」
「販売数量や営業成績にとらわれない、人々の生活を第一に考えられるような仕事を実践していきたい。今の環境でそれが実現できるのか。。」
そのような葛藤と常々向き合うようになっていた私は、大学・大学院時代に抱いていながらも社会人になって蓋をしていた蒼い思いを少しづつ思い出し、それに触れながら、自分自身が進む道を再考するようになっていきました。
もともと私は大学時代から海外に漠然とした興味があり、学生だった当時10年ほど前は、今日より発展途上国という印象の強かったベトナムやフィリピン等の東南アジア諸国やインドといった国々を訪れました。
私が所属していた大学と、海外の協定大学の学生と交流をする機会に参加したり、貧困地域で日本政府が実施しているプロジェクトを見させていただいたり、大学院時代にはバングラデシュという国に数か月滞在して研究調査を行ったこともありました。
訪問した国々では多くの志の高い同年代の友人をつくることができ、そういった経験を通して、将来は海外でも特に途上国で働きたいという思いを学生時代に抱き、それは茨城県で営業をしていた当時も胸に残っている感覚がありました。
(当時所属していた会社でも将来的なチャンスはありましたが、実現までは非常に長い年月が必要でした)
そして、営業活動の傍ら、自問自答を繰り返す中で自身の中から頻繁に出てくる思いがあることに気がつきました。
「海外で働きたい。特に途上国で人々の生活インフラに関わるようなプロジェクトに携わりたい。」
当時の自分は社会人経験も浅く、海外に長期留学した経験も、特筆すべき専門性もありませんでしたので、今思えば大それた目標を掲げたものだなと思います。
それでも、自分の気持ちがそちらに向いていることは確かだったので、迷うことなく海外に挑戦する機会を探し始めました。
そして、機会を模索している中で、6月末、ある求人が目に留まりました。
「日系企業のマダガスカル支店でODA(政府開発援助)案件の経理・財務担当を募集」
途上国といってもアジア圏内を想定していたので、アフリカのマダガスカルという、どのような生活が待っているのか想像もつかない国名に、一歩引いてしまいました。
ただ、一度逃したチャンスは二度とこないという危機感に押され、学生時代の(少しの)途上国経験と、営業配属前に財務諸表を扱う業務をしていたことが生かせるのではないかと、わずかな可能性にかけて応募してみたところトントン拍子で採用が決定しました。
マダガスカル赴任が決まってからの日々と感情。
採用が決まってからは迷うことはありませんでした。
それからは当時勤めていた会社への退職報告や引継ぎや数々の手続きに加え、マダガスカル赴任に向けての準備(たくさんのワクチン接種もあり)などで多忙を極める日々を送りました。
そして9月下旬、諸々のやるべきことを終えた私は、捨て切れなかった私物と私用車を鹿児島の実家へ運ぶため、東京から福岡の門司港へ向かうフェリーを利用することにしました。
2019年9月29日の夕暮れ、東京から見た空は普段よりも濃いオレンジ色に染まっており、新たな旅を始めようとしている私を、感傷的でノスタルジックな気持ちにさせました。
有明港出航前のフェリーの上で、1週間後には始まろうとするマダガスカルでの生活がどのようなものなのかその時は想像もつかず、漠然とした不安感とわずかな期待が交錯した不思議な感覚に浸っていました。
そのような、普段とは違う独特な心理状況のまま有明→門司→鹿児島と移動をし、バタバタと地元での手続きを進めつつマダガスカル行きの国際線出発の日を待ちました。
以上が、代表田中がマダガスカルという国と縁をもった流れです。
結局、マダガスカルでの日々は2019年10月上旬から2024年4月頭まで、約4年半続きました。
次回以降の投稿にて、なぜマダガスカルから地元鹿児島へ戻り「ちよはち商店」を開くに至ったのか、その経緯を書いていければと思います。
この度は長い文章にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
今回は長めの自己紹介記事となりましたが、本来ちよはち商店公式noteは、みなさんに暮らしを彩るヒントをお届けし、また、暮らしの中のちょっと良いことを共有していくことで、みなさんと「暮らしのつぼ」でつながっていく、そんなコミュニティを目指しています。
今後、職人さんへのインタビュー掲載やオンラインショップのオープン等、準備を進めてまいりますので、しばしお待ちいただければ幸いです。
一緒に豊かな暮らしについて考え、作っていきませんか。
ちよはち商店公式noteを今後もよろしくお願いいたします。