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[読切] 831号室

 杉野マナトは下町にある創業60年のボロいビジネスホテルの新米フロントスタッフだ。
 ここで働き始めてちょうど1ヶ月になる。

 このホテルはボロいだけで、他には何の特徴もないホテルなのだが、従業員のみが知る秘密があった。
 それは、831号室のことだ。

「たとえ他の部屋が全て埋まっていても、831号室だけは絶対に空けておくこと。」

 研修期間中にマナトは教育係の佐藤さんからこの話を聞いた。

 何でも、このホテルには丹崎さんという常連客がいて、40年くらい前に831号室を買い取ったらしい。
 まるで都市伝説みたいな話だが、実際に今でも丹崎と名乗る人物が時々その部屋を出入りしているらしい。
 佐藤さんも3度ほど遭遇したとのことだった。

 831号室は丹崎さん以外の立ち入りが禁止されており、清掃も入らない。
 中の様子はまるでわからないが、丹崎さんが部屋から出るところにたまたま出くわした従業員の話によると、チラ見した部屋の中はいたって普通に見えたとのことだった。

 丹崎さんには謎が多く、誰も知らない間に来ていて、入ったところは見ていないのに、丹崎さんが部屋から出てきたという話もある。

 マナトはぜひとも丹崎さんに遭遇してみたいと思いながら働き始めたが、そう都合よく出会える人ではないだろう。
 あの経験豊富な佐藤さんでも3回しか見てないのだ。

 そんなことを考えつつ、やることがなくて睡魔との闘いとなる夜勤の時間を漫画を読みながら耐え忍んでいると、スーっと入口の自動ドアが開いて、一人の男性が入って来た。

 夏だと言うのに長袖のスーツを着てハンチング帽を被った細身の男だった。
 黒縁眼鏡に口ひげを生やしている。

 マナトはその姿を見ると、心臓がドキンとなるのを感じた。

 間違いない。丹崎さんだ。

 マナトが緊張してフロントのカウンターの中で立ち上がると、丹崎さんがゆっくりと近づいて来て、こう言った。

「君は新人だね?」

 頷くマナト。

「私の話は聞いているかな?丹崎です。」

 思ったよりも若々しい声だ。

「丹崎様のことは承知しております。部屋のカギはお持ちとお伺いしておりますが…」

「ああ、持っているよ。ありがとう。…君、名前は?」

「杉野です。」

「そうですか、杉野君。私はしばらく滞在することになると思います。どうぞよろしく。」

 そう言うと、丹崎さんはエレベータを呼んで一人で上がって行った。彼への接客は受付だけして、荷物を運んだりなど余計なことは一切しなくてよい、と聞いていた。

 マナトは台帳に丹崎様ご宿泊の情報を入力すると、エレベータの数字がゆっくりと8階へと向かうのを眺めた。

 少し話しただけで、強烈な印象だった。何と言うか、ああゆうのをオーラがすごいと言うのだろうか。
 それに、マナトが思っていたより若いようだった。

 勝手に八十過ぎのおじいちゃんを想像していたのだ。
 あれはせいぜい40代、若く見えるとしても50代だろう…。
 もしかしたら、部屋を購入した人の息子とかなのかもしれない。

 マナトの頭は好奇心でいっぱいになってしまった。

 それにしても、都心に近い高級ホテルならまだしも、なぜこんなボロいホテルの一室なんかを買い取ったのだろうか。
 しばらく滞在すると言っていた。何とかあのおじさんと親しくなる方法はないのだろうか。

 このホテルでは、夜間にはほとんど何も起こらないので、夜勤のフロントは一人勤務である。
 休憩中は守衛さんが代わってくれる。

 丹崎さんのことが気になりつつも、マナトは長い夜をぼーっと過ごしていた。
 すると、急にフロントの電話が鳴った。

 マナトは椅子から飛び上がるほどびっくりして、電話の主を見ると、831号室からの受信であることを小さなランプが示していた。

 丹崎さん!?

 あわてて受話器を取ると、丹崎さんの落ち着いた声が聞こえて来た。

『君は、杉野君かな?』

「はいそうです。」

『夜中に申し訳ないね。少し手伝ってほしいことがあるのだが、30分ほどお時間をいただけないだろうか?』

 丹崎さんからお願いごとなんて、これはものすごく珍しいことなのではないか。

 マナトは二つ返事で了承すると、守衛さんにフロントを託し、831号室へ向かった。
 その途中で、ふと、丹崎さんが変態で、自分を手籠めにしようと企んでいるのだったらどうしよう…と変な考えが浮かんだが、頭を振って追い払った。
 仮にそうだとしても、あのおじさんにだったら勝てる自信があった。

 とにかく、これは行かないなどといいう選択肢はないのだった。

 831号室の前に来ると、マナトはすーっと深呼吸してから、そっとドアを三回ノックした。

 ゆっくりとドアが開き、丹崎さんがマナトを部屋の中へと招き入れた。

 831号室はツインの部屋だ。
 ベッドが二つある。

 絨毯や壁紙、ベッドの布団などが他の部屋と違っているが、丹崎さんの部屋に特におかしな点は見当たらなかった。
 部屋の片隅に、古めかしい冷蔵庫が置いてあった。他の部屋の冷蔵庫は定期的に新しいものと変えられているが、この部屋の冷蔵庫はいったい何年前のものなのだろうか。

 あまりジロジロ見てはいけないと思いつつも、マナトは部屋を見回すことがやめられなかった。
 丹崎さんはこの部屋に私物を持ち込んではおらず、ホテルの一室のまま、手を加えずに使っている様子だった。

「いや…本当にすまないね…。ちょっとこれを見てくれないかな。」

 そう言うと、丹崎さんは、テーブルの引き出しから、ルーペのようなものを取り出して、マナトに握らせた。
 マナトがどうすればいいのか迷っていると、丹崎さが、それで覗いてみてと仕草で示した。

 ルーペを除くと、チリチリチリと小さな音がして、青い光が見えた。
 その瞬間、がくんとヒザの力が抜けて、さぁーっと身体が冷たくなるような感覚に襲われた。

 視界が白くなり、フワフワ浮いているようだった。

 しばらくすると、マナトは見知らぬ街にいた。見知らぬ街だが、よく知っているようなそんな街だった。
 何故自分がここにいるのか、自分が何者なのかもよくわからなかった。

 何からかはわからないが、何かから逃げていた。

 後ろに誰か、一緒に逃げている人の気配があるが、誰だかわからなかった。

 古い雑居ビルの中に逃げ込むと、薄暗い階段を上った。
 8階くらいまで必死で駆け上り、古びた鉄のドアを開けると、真ん中にテーブルがあって、その上に妙な機械が置いてあった。

 何本ものシリンダーがむき出しで設置されていて、それぞれがバラバラに上下運動をしている。ちょうどミシンくらいの大きさだ。
 何かのエンジンのようにも見えるが、カチャン、カチャンと鳴っている音はソフトで、楽器のようにも思えた。

 それはいつまででも見ていられるような動きだった。
 マナトは追われていたことを忘れて、ぼーっと機械を眺めていた。

 するといつの間にか、マナトと機械の間に、こちらに背を向けた人が立っていた。
 漫画に出てくる怪盗のような怪しげな黒いマントに黒い山高帽を身に着けている。

 何者だろうとみていると、その人物がゆっくりと振り返った。
 その顔には不気味な白い仮面がつけられていて、素顔は見えなかった。
 仮面はニタニタと笑っていた。

 こいつから逃げていたんだ!

 マナトは悟り、その場から逃げようとしたが、足が鉛のように固まって動けなかった。

 ニタニタ顔の仮面野郎はそのままゆっくりとマナトの方へと近づいて来て、やたらと長い腕を伸ばして来た。
 異常に長い腕だ。普通の倍くらいあるだろうか…。

「やめろっ!!!」

 腕から逃れようと体をひねったところで、ヒザが何かにぶつかった。その痛みで我に返ると、マナトはホテルのフロントの椅子の上で落ちそうになっていた。

 あれ? 夢か?

 マナトは狐につままれたような気持ちであたりを見回した。

 居眠りしていたのか?

 確かに丹崎さんに呼ばれて部屋まで行ったと思ったのだが…??? それも夢だったのだろうか?

 起きる直前に見ていた不気味な夢を思い返そうとしたが、細部が急激に失われて行き、ただ恐ろしかったという印象だけになってしまった。

 どこからどこまでが夢なのか、現実が曖昧になってしまったので、マナトは守衛さんのところに行ってみた。
 守衛さんは、いつもどおり、小さな音でラジオを聞きながらせんべいをかじっているところだった。

 マナトの姿を見ると、よっと片手をあげて挨拶をしてきた。

「あれ?まだ休憩の時間じゃないだろう?」

 守衛さんは何も知らない様子だ。

「あー…、すいません、十円貸してくれませんか?小銭切らしちゃて…」

 マナトは咄嗟に思いついた出まかせを喋った。守衛さんは快く十円をくれた。
 ここでマナトが変な質問をしたら、噂になって仕事がしづらくなるかもしれない。

 マナトが丹崎さんの部屋に行ったのかどうかを確認することができずに、マナトはフロントに戻って来た。
 守衛さんのあの状況を見ると、ずっとあそこに座っていた感じだ。
 さっきのは丸々夢だったと思う方が自然である。

 マナトはエレベーターで8階へあがり、そっと丹崎さんの部屋の前へ行ってみた。
 ドアに耳を近づけて中の音をうかがってみる。

 何か機械のような…カチャン、カチャンという小さな音が聞こえた。

 もっとよく聞こうとドアに耳を押し当てると、ドアが内側に動いた。
 ドアが開いていたのだ!

 そっとドアを押して開けてみると、カタンと何かが下に落ちた。
 見ると、歯ブラシが落ちていた。

 これが挟まっていてドアが閉まりきっていなかったのだ。
 ここのホテルでは、3年前に全ての客室のドアをオートロックにしたと聞いている。
 丹崎さんの部屋のドアがどうなっているのかは聞いてなかったが、オートロックになっている可能性は高い。

 マナトは念のために歯ブラシはそのままに、ドアが閉まり切らないようにして中に入った。
 こんなことバレたら確実にクビだが、部屋の中を確認したいという衝動を抑えることができなかった。

 それに、ドアが不自然に空いていたではないか。丹崎さんにもしものことがあったのであれば、見て見ぬふりをしたことを一生後悔する。
 マナトはそんなことをあれこれ考えながら部屋の中へと入って行った。

 部屋の中は電気がついていて明るかった。
 壁紙や絨毯、そして冷蔵庫はさきほどマナトが見たと記憶していた通りだった。

 やはり自分はこの部屋に来たのだろうか?

 ベッドの上に妙な機械が置いてあり、そこからいくつも飛び出た棒状のものが上下にピストン運動をしていた。
 カチャン、カチャンという音はその機械が出していた。さっきはこんな機械はなかったはずだ。

 丹崎さんは?

 ベッドの向こう側の床に仰向けに倒れている足が見えた。

 マナトはびっくりして、駆け寄った。

 その拍子に何かを踏んづけて前のめりに転んでしまった。

 自分のドジさにうんざりしながら踏んづけたものを拾った。
 何かぶにょぶにょしたものだった。

 広げてみると、人の顔だった。

 マナトは思わずギャッと声を出してそれを放り投げた。

 丹崎さんは無事なのだろうか??

 マナトは恐る恐るベッドの向こう側で倒れている丹崎さんと思われる人物の様子を確認しに向かった。

 ベッドの向こう側で倒れていたのは丹崎さんではなかった。
 見知らぬ男性。

 マナトと同じ歳くらいだろうか。
 出入りしている客の顔はだいたい把握しているつもりだが、この人物は見たことがなかった。

 侵入者か!?
 丹崎さんはどこだ?

 マナトは咄嗟に近くにあった電源コードを掴むと、倒れている男を裏返して素早く両腕をコードで縛った。

 こんなのでは全く意味がないかもしれないけど、凶悪な奴だったとしても、ひとまず逃げてエレベータに乗り込むくらいの時間稼ぎにはなるだろう。

 腕を縛っていると、男が意識を取り戻して起き上がろうとしたので、マナトは背中の上に馬乗りになって彼を押さえつけた。

「お前は誰だ?丹崎さんをどうした?」

 マナトは他の宿泊客に聞かれないように低い声で言った。
 男は上半身をねじってマナトの方を見ると、少し微笑んで体の力を抜いた。

「驚かしてしまってすまない。俺は怪しいものではない。…と言っても信じないだろうけど。」

「丹崎さんはどこだ?」

 マナトは同じ質問を繰り返しながら、男を再び床に押し付けた。

「全部説明するから、そこからどいてくれないか?」

「ダメに決まっているだろう?」

「じゃあ、その辺に、顔の皮が落ちてなかったか?説明するのにそれがいる。」

 顔の皮…。さっきマナトが部屋の向こう側に投げてしまった。

「ここから届かないところにある。」

「じゃあ、俺はここを動かないから持ってきてくれないか?」

 マナトはどうしたものか思考を巡らせた。携帯電話はフロントに置いてきてしまった。
 この部屋の電話はテーブルの上だ。この男から離れずには使えない。

 もう一度男の顔を見てみる。
 横顔しか見えないが、よく見たら、どこかで見たような気がしてきた。

 誰だ? 思い出せない。

 マナトの警戒心が少しゆるむ。後ろ手に縛っているし、数秒なら大丈夫かもしれない。

「顔の皮を取ってくる。少しでも動いたら飛び蹴りをするからな。いいな。」

 それを聞いて男はふふふと笑った。

「いいよ。動かないから、皮を取って来て。見せてあげる。」

 マナトは男の上から立ち上がると、素早くベッドの向こう側に落ちてる顔の皮を拾ってきて、また男の上に乗った。

「持ってきたぞ。説明しろ。」

「手をほどいてくれないか?」

「無理だ。」

「じゃあ、その皮を俺の顔にかぶせてみろ。」

 マナトは男が言うとおりにやってみた。
 すると、男が丹崎さんになった。しっかりかぶせていないので、妙な顔つきだが、間違いなく丹崎さんだった。

 マナトはぞっとして、男の上からどいた。

 男は体を起こすと、縛られている腕をほどいてくれと、仕草で示した。
 マナトは電気コードをほどいて男の手を自由にしてやった。

 男は顔の皮をしっかり装着すると立ち上がった。

 そこには丹崎さんがいた。

「こういうわけだよ、杉野君。」

 丹崎さんが言った。

 マナトはぽかんとして丹崎さんを見ていた。
 丹崎さんはあははと笑って、顔の皮を取った。
 さきほどの若い男が現れた。

 男が続けて何か言おうと口を開いたが、すぐにハッとした顔になり、部屋の入口の方を見た。
 マナトも男の視線を追って振り返る。

 ドアがゆっくり開いて、黒いスーツに黒い山高帽を被った異常に顔の白い人物が、音もなく部屋に入って来ているのが見えた。

「シ・ン・デ・ナ・イ…」

 そいつはおよそ人の声とは思えない声でたどたどしく言った。

 マナトはそのあまりの不気味さに悲鳴をあげそうになったが、丹崎さんに思い切り突き飛ばされて、声は声にならなかった。

 それと同時にパスッと何か空気の抜けるような音がして、背後の壁に小さな穴が空いた。
 マナトは床に倒れ込みながら振り返ると、丹崎さんがウッと小さなうめき声を発しながらも、両手を突き出しているのが見えた。その手には拳銃が握られていた。

 パスッパスッとまた空気の抜けるような音がしかたと思うと、ドサッという音がして、黒い山高帽の男が床に倒れるのが見えた。
 丹崎さんは銃を構えながら倒れた男に近づき、首筋に指を当てた。脈を確認しているんだ。まるで漫画か映画のような情景を、マナトはどこか他人事のように見ていた。

 丹崎さんは、倒れた男の腕を引っ張って完全に部屋の中へと入れると、銃を構えたままドアに身を隠しつつ廊下の様子をしばらく見ていた。

「くそ… “死んでない” はこっちの台詞だぜ。こいつ一人か…?」

 丹崎さんはそう言うと、落ちている歯ブラシを足で蹴って中に入れ、ドアをしっかり閉めた。
 茫然とへたり込んでいるマナトを見ると、丹崎さんは「やれやれ…」という表情をした。

「マナト、時間がない。行くぞ。」

 有無を言わせない感じで、丹崎さんはマナトの腕を引いて立たせた。
 マナトは倒れている不気味な男からやっと視線を放して、自分を引っ張る丹崎さんを見た。
 丹崎さんの肩のあたりで服が破れて血が流れていた。

「血が…!」

 マナトが言うと、丹崎さんは「これくらいは大したことない」と行って、マナトを機械の方へと近づけた。
 機械には、上下運動している数本のシリンダーの他に、ダイヤルのようなものがついていた。

 丹崎さんはそのダイヤルを回すと、横についてる赤いボタンを押した。

 カチャン、カチャンと一定のリズムを刻んでいたシリンダーの動きが早くなったかと思うと、キーーンと耳鳴りのような音が鳴り始めた。
 それと同時に、まわりが白っぽくなり、まるで貧血で倒れる前のような感じになった。

 たまらず、マナトは丹崎さんにしがみついた。
 丹崎さんは、怪我をしていない方の腕でマナトを抱え込むように支えてくれた。

「ちょっと気分が悪くなるかもよ。踏ん張れ。」

 マナトはぎゅっと目を閉じた。ぐるぐる回転するような感覚。
 そのまま倒れそうになったが、何とか踏みとどまった。

 やがて、平衡感覚が戻って来て、地に足が付く感覚がした。
 目をあけると、マナトは見知らぬ部屋にいた。

 まわりを確認する前に、猛烈な吐き気が襲ってきて、床に吐いてしまった。

「大丈夫か? 横になるといいよ。」

 丹崎さんに言われて、マナトはすぐ横に置いてあるソファーに寝かされた。
 かび臭くて湿っぽいソファーだったが、そんなことを気にしている余裕はマナトにはなかった。

 目を閉じてじっと横になっていると、やがて吐き気は落ち着いてきた。
 ゆっくり体を起こすと、丹崎さんがマナトが汚した床を掃除していた。

「あ…俺…」

 丹崎さんは「気にするな」と言いながら、慣れた手つきで汚物をふき取ると、使っていたペーパータオルを捨て、手を洗い、コップに一杯の水を持ってきた。
 水はひどい味だったが、口の中の嫌な感じを洗い流すのには充分だった。

 気分が落ち着くと、さっきのホテルの部屋での出来事がフラッシュバックしてきた。

「さっきの人は死んだの?」

「ああ。ちなみに、あいつは人間じゃない。たぶん。」

 そう言って、丹崎さんはチラッとマナトの方を見た。
 それから、部屋の向こう側にある棚の方へ行き、クッキーが入っているような金属の箱を持ってきた。

 箱を持って丹崎さんがマナトの横に座ったので、何をするのかと見ていると、丹崎さんがおもむろに上着を脱ぎ、箱を開けた。
 箱には救急用品が入っていた。

 丹崎さんは自分のケガの手当をし始めた。
 それを見ながら、マナトは、この人はいったい誰なのか?ここはどこなのか?と考えていた。

 丹崎さんは自分で包帯を巻いていたが、手をとめて、マナトの方を見た。

「わりい、マナト、あっちの引き出しにハサミが入ってるから持ってきてくれないか?」

 マナトは言われるがままにハサミを持ってきて渡しながら、はたと気が付いた。

「なぜ俺の名がマナトだと知ってるんだ? 君が丹崎さんなら苗字しか伝えてないはずだけど。」

 丹崎さんは、ハサミを受け取りながら、じっとマナトの顔を見た。その表情は計り知れなかったが、何か物悲しそうに見えた。

「あそこのホテルの従業員の身元は念のために調べさせてもらっているんだよ。俺の仕事だからね。」

 丹崎さんは片手で器用に包帯を結び、ハサミで余分を切った。そして、怪我をしている方の手をしばらく動かして、満足そうにうなずくと、救急箱を棚に戻しに行った。

「俺は、ソウヤだ。丹崎は異名。」

 彼はドカッとマナトの隣に座ると、ニヤッと笑いながら言った。
 それと同時に、部ドンドコドンと妙なリズムでドア叩く音がして、ガチャっと誰かが入って来た。

「ソウヤ、いるのか?緊急警報が鳴ってたけど?」

 ツンツンした金髪が印象的なパンクな女の子がズカズカと部屋に入って来た。
 ソウヤは慌てた様子で立ち上がると、女の子の前に立ちはだかった。

「シーラ、ノックはいいけど返事を待ってから入って来いよ。」

「何だよ、女を連れ込むようなタマでもないくせに。」

 そう言いながら、シーラと呼ばれた女の子はチラッとマナトの方を見て、眼をまん丸に見開いた。

「マナトじゃねぇかよ。連れ戻せたのか?」

 丹崎…もといソウヤは「あちゃ~」という顔をして女の子方を見て首を振った。それで女の子は状況を理解したらしくて、えー…という顔をした。
 このやり取りを見て、マナトは自分の知らないところで、何かが起こっていることを悟った。
 ゆっくり立ち上がると、気まずそうにしている二人に向かって「説明してくれる?」と言った。

 ソウヤはマナトの肩に腕を回してソファーにもう一度座らせると、シーラも反対側に座った。
 二人の見知らぬ者に挟まれて座っているのに、なんだか昔からこうやって座っていたような気もしてきた。

「彼女はシーラだ。」

 シーラはニッと笑って見せた。チューインガムのような甘ったるい香がした。

「じゃあ、もう一回やってみるか。」

 ソウヤの手には、最初に丹崎さんの部屋に行ったときに見たルーペのようなものが握られていた。
 それをマナトの片目にあてる。

 見ているとチリチリという音がして青い光が見えたが、今度は何も起こらなった。
 しばらく、ソウヤとシーラはマナトの様子を見ていた。

「戻らないのか?」

 シーラがソウヤとマナトを交互に見ながら言った。

「そうみたいだ。」

「やばいんじゃないか?」

「そうだな…。マナト、まだ何も思い出さないか?」

 ソウヤの質問にマナトは頷いて答えた。

「最初に使ったときはどうだった?気を失っただろう?」

 マナトは少し考えた。何かは起こったようだったが、うまく説明できるか自信がなかった。

「最初にそれを覗いた時は、貧血みたいになって、変な夢を見たように思うんだけど…」

「どんな夢だ?」

「覚えていない。なんか気味悪い夢という印象だけで…」

 それを聞くとマナトは立ち上がり、少し何か考えている様子だった。

「この修復情報が効かないとなると本部でもダメかもな…。」

 ソウヤは棚の上からタブレット端末のようなものを取り出すと、マナトに投げてよこした。
 マナトは慌ててそれを受け取った。

「悪いけど、お前にいろいろ説明している暇がないんだ。それで、“ジャンパー” について調べてみろ。俺たちのことだ。」

 ソウヤはテーブルの上に置いてあった銃を取ると、ズボンの後ろに無造作に突っ込んだ。
 それを見てシーラが慌てて立ち上がった。

「まてよ、ソウヤ。マナトをここに置いていくのか?」

「しかたないだろう? 仕事は山積みだ。ひとまず今日のノルマを片付けよう。」

「冴島さんには?」

「俺からうまくごまかして報告しておくよ。」

 マナトは本当に何が何だかわからず、二人のやりとりをただ黙って聞いていた。

「マナト、俺たちは仕事があるから行くけど、夜には帰ってくる。それまでこの部屋から一歩も出るな。誰か来ても居ないフリをしろ。安全なのはこの部屋の中だけだ。冷蔵庫の中のものは好きに食べていいぞ。」

 そう言いながら、ソウヤはキッチンの下の戸棚から、ホテルで見たのと同じようなシリンダーのついた機械を取り出しテーブルの上に置いた。
 シーラが駆け寄ってソウヤのすぐ隣に立った。
 マナトは不安になってあわてて立ち上がった。それを見てソウヤはニヤッと笑った。

「お前のそんな顔を見るとはな…。いいか、ここは今のお前が知ってる世界と比べたら何百倍も治安が悪い。くれぐれも外には出るなよ。」

 そう言うと、ソウヤは機械のダイアルを操作し赤いボタンを押した。
 二人の姿がゆらゆらと揺れたように見えたら、ふわっと消えてしまった。

 消える瞬間にシーラが振り返り、心配そうな複雑な表情をしているのが見えた。

 ひとりになったマナトは、ここから逃げるべきなのか、留まるべきなのか、しばらく考えていた。
 ここがどこなのか全くわからないが、薄汚い窓から外を見た感じ、マナトが知る街ではなさそうだった。

 さっきの二人がマナトを縛ったりせずに行ってしまったということは、マナトを監禁しようという気はないのであろう。

 マナトは部屋のドアに近づくと、そっとドアノブに触ってみた。触るとすぐにガチャっと音がしてロックが解除されたことがわかった。
 生体認証か?

 そっとドアをあけてみると、そこは、汚らしいビルの廊下だった。
 一歩踏み出て自分がいた部屋のドアを見ると、「831」と書いてあった。

 ここも831号室なのか?

 ドアの近くの階段から足音が聞こえたので、マナトは慌てて部屋の中に戻りドアを閉めた。
 カギの閉め方がわからなかったが、ドアノブから手を放したらガチャっと音がして鍵が閉まったようだった。

 この部屋のドアには覗き窓がついていない。
 外の様子がわからないので、耳をドアに押し付けて様子を覗った。

足音はゆっくりと階段を上って行き、だんだん小さくなってやがて聞こえなくなった。

 よかった。このフロアに用があるわけではなかったようだ。

 マナトはほっとしてソファーに戻ると、さきほどソウヤが投げてよこしたタブレットを見た。
 見た感じはマナトの知るタブレットと同じように見えた。

 画面に触るとすぐに起動した。

 見たことないインターフェースだったが、何となく使い方はわかった。
 適当にアイコンを開いていくと、インターネットのようなページが立ち上がった。

 見たことがないサイトだったが、検索サイトらしいことがわかった。
 そこに、「ジャンパー」と文字を入れてみた。

 表示されているのは見たことがない文字だったが、なぜかマナトには読めるのだった。

 たくさんのページがヒットしたので、一番上に出たページを見てみた。
 エンサイクロペディアネットという聞いたことがないサイトだったが、この世界のあらゆる情報が載っている百科事典のようなサイトのようだった。
 そこにはこう書いてあった。

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ジャンパー:

丹崎研究所(現 国際連合階層調査団)によって発見された世界の階層の間を自由に行き来できる能力を人工的に付与された者。
調査団の公式発表では、ジャンパーは他階層へ派遣され、この世界の成り立ちについての調査実験を行っているという。

2018年に元ジャンパーと名乗る人物(A氏 仮名)がテレビのインタビュー番組に出演し、驚くべきジャンパーの実態を暴露した。
その真偽は不明なままだが、信憑性があるとして、彼の語った内容が真実として語られることが多い。
その内容は以下のとおりである。

・幼少期のテストで素質があるとされたものがジャンパーとして選ばれる。
・ジャンパーとして選ばれた者は10歳になる前に脳内にメタルスピリットという器具を埋め込む手術を受ける。
・メタルスピリットによってジャンパーは層間移動が可能になる。
・それから成人するまでに、様々な訓練を受け、特殊工作員としての知識と技術を身に着ける。
・同時期に活動するジャンパーは4~5人である。
・成人すると実際に工作員として動員され、30代半ばで引退するまで階層間を移動しつつ活動をするが、計画の全貌は知らされない。
・ジャンパーは脳内に埋め込まれたメタルスピリットの機能で記憶が操作可能となっている。
・引退すると、通常はジャンパーであった記憶は消されるが、A氏の場合は、その操作が正常に機能しなかったらしい。
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 世界の階層??
 マナトは文中のリンクを辿った。

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世界の階層:

1939年に丹崎研究所(現 国際連合階層調査団)で偶然、我々の世界とは別に、並行した世界があることが発見された。
その世界は階層やレイヤーと呼ばれる。

現在、第六層までが発見されている。

国際連合階層調査団では1941年に物体を他の階層へ転送してから戻す ≪ゴーアンドリターン計画≫ を成功させ、それ以降、我々の世界を第一層とした世界階層マップを順次完成させた。
ジャンパーが活動を開始したのは、1986年ごろからと言われている。

各階層の成り立ちは不明なままだが、それぞれ独自の年号を持っているにも関わらず、その年数は一致している。
これにより、各階層はかつて同一の世界だった可能性が指摘されている。

第一層:

我々の世界。国際連合階層調査団の管理下以外では他階層に関与できないよう国際法で取り締まられている。

第二層:

1939年に発見された最初の他階層。
調査団の報告によると、戦争や内戦の絶えない危険な世界だとのこと。
支配層を除き、この世界の住民には他階層の存在を知らされていない。
この階層出身者が他階層へ飛べるのかどうかは未確認。

第三層:

1941年に第四層と共に発見された。
治安は悪いが、いくつか安全に暮らせる街もあり、今まで発見された中では最も第一層に近い世界である。
この階層でジャンパー拉致事件が起きたので、現在は調査が制限されている。
支配層を除き、この世界の住民には他階層の存在を知らされていない。
この階層出身者が他階層へ飛べるのかどうかは未確認。

第四層:

第三層と共に1941年に発見された。これまでに発見された階層の中で唯一戦争や紛争から離脱した世界。
何でも話し合いで解決するように国際的に定められているので、永遠の話し合いが続いている。
非常に平和で温和な住民が暮らすが、なぜか自殺率が異常に高い。
支配層を除き、この世界の住民には他階層の存在を知らされていない。
この階層出身者が他階層へ飛べるのかどうかは未確認。

第五層:

1975年に発見された。平均的なバランスの取れた世界。少々資本主義に走り過ぎな面があるが、おそらく現在発見されている中で一番生活しやすいのではと思われる世界。
支配層を除き、この世界の住民には他階層の存在を知らされていない。
この階層出身者が他階層へ飛べるのかどうかは未確認。

第六層:

2020年に発見された一番新しい階層。3月ころに突如として出現したとされる。
調査団の報告によると、第六層にはまだ潜入が成功していない。

第三層で活動中のジャンパーが襲撃される事件が起き、犯人を追跡したところ、第六層の存在が明らかとなった。

第六層について公表されている情報は以下のとおり。

・第六層から来た者が、第三・五層へジャンプした痕跡はあるが、それ以外はない。他の階層には飛べないのではないかと推測されている。
・第六層から来た者は、第三層でジャンパーを拉致し、記憶を改ざんして第五層へと転送したが、目的は不明。
・殺害した第六層からの刺客を調査したところ、我々の知るどの人類とも構造が異なっていたとのこと。詳細は未公開。
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 マナトは続いてジャンパー襲撃事件について調べてみた。
 ジャンパーの身元は公表されていないので、名前などは出ていなかったが、今までに3人のジャンパーが拉致され、第五層に移動させられたとあった。
 そのうち、1人は死亡、1人は救出され治療中。現在残りの3人目を捜索中だとのことだった。

 自分はこの3人目なのだろうか?
 きっとそうだ。

 マナトは何となく自分の立場について理解し始めていた。とても信じがたいことだが、この情報を総合すると、今までの不可思議な経験の辻褄があう。

 タブレットの画面を見すぎて疲労を感じてきたので、一旦休憩にすることにした。
 窓の外を見ると、西日が強烈に街を照らしていた。

 マナトは階下の街を観察してみた。
 どの店もシャッターが閉まっていて、そこら中落書きだらけだった。

 治安がすこぶる悪そうだ。

 目の前の路地から派手な格好をした女がひとり出てきて、交差点に立って煙草を吸い始めた。
 そこへ、数人のガラの悪そうな男が近寄って来て女に話しかけ始めた。
 よく見えないが、女は嫌がっているように見えた。

 男のひとりが女の腕をつかむのが見えた。

 あの人、襲われているんじゃ!?

 マナトは深く考えずに部屋を飛び出すと、階段を駆け下りて建物の外へ出た。
 女が襲われている交差点を確認すると、一直線にそちらへ走って行った。

「やめろよ、嫌がってるだろう?」

 マナトがもめている集団に声をかけると、男たちが振り返った。
 凶暴そうな男たちだった。

「なんだてめぇは」

 ちょっとまて、俺、こいつらと戦うつもりか?

 勢いで出てきてしまったが、その後のことは何も考えていなかった。
 ソウヤにあれほど外に出るなと言われていたのに…!

 マナトは自分のドジさを呪った。

「いや、ほら、彼女、嫌がってるんじゃないかなーと思って。」

 あははと笑ってごまかしたが無駄だった。
 男たちはすっかりマナトにロックオンだ。

「おい、こいつ、マナトじゃねぇか?」

 男のうちの一人が言った。

「まじか? ソウヤは一緒じゃねぇのか?」

「一人でのこのこやって来るなんていい度胸だな。」

「やっちまおうぜ!」

 どうやらマナトはこの連中と知り合いのようだった。しかも関係がよくない。
 絡まれていた女の方を見ると、腕組みをしてこちらを睨みつけている。

 まさか彼女も戦うつもりじゃ…?

「君は逃げろ!」

 マナトが叫ぶと、信じがたいことに女は「はぁ?」という顔をした。

「うるせぇな。商売の邪魔しやがって!」

 そう叫ぶと、女は薬指を突き立ててから、足早に立ち去って行った。

 商売…!?

 マナトが考える暇もなく、拳が顔に飛んできた。拳はスローモーションのようにゆっくり見えたが、体が動かずよけることはできなかった。
 目の前に火花が散るような感覚がして、マナトは後ろにひっくり返った。
 立とうとすると、男たちに周りを囲まれ、四方八方から蹴りを入れらた。

 みぞおちを蹴られて息が詰まる。マナトは本能的に身体を丸めて急所に蹴りが入らないような姿勢を取った。

 俺はバカだ…。こんな見知らぬところで、知らない奴らにボコボコにされて死ぬのか…。
 マナトは遠のく意識の中でそう考えていた。

「マナト!!」

 自分の名前を呼ぶ声に、マナトの意識は少しだけ現実に戻った。
 あの声は…ソウヤか!?

 ドス、ドスと重たい音が何度か響いた。
 うめき声が同時に聞こえたので誰か殴られたのかもしれない。

 ソウヤがやられている?
 マナトは必死で起き上がろうとしたが体が動かなった。

「うせろ!カス野郎。」

 ソウヤの声が叫ぶと、ドタドタといくつかの足音が慌ただしく去っていくのが聞こえた。

「大丈夫か?」

 ソウヤに助け起こされて、マナトは何とか立ち上がった。
 ひどい打ち身にはなったが、骨は折れていないようだった。

「歩けるか?」

 マナトは頷いて、ゆっくりと歩きだした。
 いつの間にかソウヤと反対側の体をシーラが無言で支えてくれていた。

 部屋に戻ると、マナトは奥の部屋へと連れて行かれた。
 そこは寝室だった。

 マナトはベッドに寝かされた。
 服を脱がされ、シーラが湿布を貼ってくれた。

 シーラは終始無言で寂しそうな顔をしていた。

「お前が怪我人でなければぶん殴りたいところだ。あれほど外には出るなって言ったのに。」

 ソウヤが本気で怒っている声で言った。

「シーラ、今日はすまなかったな。よく休んでまた明日来てくれ。」

 シーラは頷くと、部屋から出て行った。
 シーラが出て行っても、ソウヤはマナトのベッドの横に無言で立っていた。
 何か物思いにふけっている表情だった。

「彼女、一人で帰らせて大丈夫なの?」

 マナトはどうしても気になったので言った。

「あいつなら大丈夫だよ。“ジャンパー” について調べたんだろう?」

「うん、一通りは…」

「俺たちは調査団に作られた殺戮マシーンなんだよ。その辺の奴なんかにはやられない。」

 殺戮マシーン…。マナトはソウヤの洗練された身のこなしを思い浮かべた。
 自分もそうなのだろうか…? いまはただのドジな奴でしかない。

「マナト…俺は絶対にお前を取り戻すよ。」

 そう言ってソウヤは寝室から出て行った。

 翌朝起きると、体のあちこちが痛かった。
 やっとの思いでベッドから立ち上がり寝室から出ると、ソウヤがキッチンでコーヒーを飲んでいた。
 昨日は気が付かなったが、この部屋には寝室が1つしかない。ソウヤはソファーで寝たようだ。

「もしかして君のベッドを使ってしまった?」

「いや、ここはお前の家だよ。831号室は歴代リーダーの家だからね。」

「俺はリーダーだったのか…。」

 質問とも独り言ともとれるマナトのつぶやきにソウヤは答えず、代わりにもう一つのカップにコーヒーを入れて渡してくれた。

「昨日の一件で、近所の連中にお前が戻ったことがバレちまった。しばらくお前には護衛が必要だろうよ。」

 ここでドンドコドンとノックの音がしてシーラが入って来た。
 心なしか少し不貞腐れたような顔をしている。

「悪いなシーラ。ナギを迎えに行ってくるから、マナトと留守番しててくれないか?」

 それを聞いてシーラはますます仏頂面になってしまった。

「じゃあな。二人ともいい子にしてろよ。」

 ソウヤが出て行くと、シーラは無言でソファーに座り、そこにあったタブレットを手にとて何かを見始めた。
 マナトのお守りを押し付けられて不機嫌なのだろうとマナトは思った。

 触らぬ神に祟りなし…。彼女はほっとこう…。

 体中が痛かったので昨晩シーラに貼ってもらった湿布を取り換えることにした。
 昨日ソウヤが使っていた救急箱から湿布を取り出すと、シーラの隣に腰を下ろして上着を脱いだ。

 シーラは少し腰を浮かせてマナトから離れて座りなおした。

 マナトは気にしないフリを続けて、湿布を取り換え始めた。
 脇腹や胸は自分でも取り換えられたが、背中はどうしても届かなった。

 シーラの方を見ると、彼女はまだタブレットで何かを見ていた。マナトは思い切って話しかけることにした。

「ねえ、背中の湿布、換えてくれないかな…」

 シーラはチラリとこちらを見たけど、フンと言ってわかりやすく無視してきた。

「ちょっと、シーラちゃん。頼むよ。背中痛いんだけど。」

 マナトが背中を向けて待っていると、シーラは大げさにため息をついてタブレットを置くと、湿布を手にした。

「シーラちゃんなんて呼ぶなよ、気持ち悪いな。」

 そう言うと、シーラは乱暴に昨日の湿布を剥がして、新しい湿布を力いっぱいビタンっとマナトの背中に叩きつけた。

「いってー。怪我人だぞ。もっと労わってほしい…」

 マナトは空気を和ませようとふざけて行ってみたが、シーラはそんな気分にはならないようだった。
 先ほどの乱暴さとは裏腹に、彼女はマナトの背中にそっと寄り添って言った。

「記憶が無くなるってどんな気持ちだ?」

 その声があまりに深刻だったので、マナトはふざけるのはやめにした。

「何も覚えていないからね。何かを失ったという感覚はまるでないよ。自分の知らない自分がここにいた、ということは理解はしたけど、実感はない。」

「怖くはないのか?」

「最初はね、怖かったよ。だけど君たちがいるってわかったから今は大丈夫だ。」

 シーラはマナトの背中でふぅーっと溜め息をついた。

「やっぱりお前は強いよ。こんな腑抜けなマナトは見たくないってずっと思ってたけど、マナトはマナトだな。」

 マナトはゆっくりシーラの方に体を向けて、彼女と向き合った。
 シーラは少し涙ぐんだ目をしていた。

「ジャンパーはさ、引退するとき、記憶を消されるんだよ。自分のしてきたことを全部忘れて普通の人間として新しい人生を与えられるんだ。あたしはずっとそれが怖くて怖くて、怖すぎて考えないようにして生きてきたんだ。ずっと見て見ぬふりしてきたんだ。記憶を消されるなんて死んだも同然じゃないか…。本当に死んじまう奴も結構いるけどな。」

 それでマナトは思い出した。今回、自分が巻き込まれたジャンパー拉致事件で、一人は死亡と書いてあった。彼ら…自分も含めて、もしかして、仲間を失ったばかりだったりするのだろうか?
 そうだとしたら、何にも覚えていない自分を見て、シーラがこんなに落ち込んでいる理由も納得できる。

「ニュースの記事を読んだんだけど…」

 マナトは思い切ってシーラに聞いてみることにした。

「仲間がひとり亡くなったの?」

 シーラは真顔でマナトを見返した。

「ジェイクだ。覚えてなくて正解だよ。あんたとジェイクは仲がよくなかった。死人の話はしない掟だ。ソウヤにジェイクのことは絶対に話すなよ。」

「わかったよ…。すまない。」

 何だか思っていたのと違う反応だったが、今のうちにシーラに聞いておいてよかったのかもしれない。
 シーラはじーっとマナトの顔を見ていた。マナトの心情を推し量っているようだった。

 シーラって俺の事、好きなのかな?? マナトは唐突にそう思った。

「俺と君の関係ってどんなだったの? 恋人?」

 それを聞いて、ぶっとシーラは吹きだした。

「そんなわけないだろう! あたしら4歳の時からずっと一緒にいるんだよ。ちなみに、あんたには恋人はいないよ、残念だな。」

 かつての自分がどういう人間だったのか、シーラに聞こうと、マナトが口を開きかけた瞬間、玄関のドアが勢いよく、バンと音をたてて開いた。
 びっくりしてそちらを見ると、50代半ばくらいの背の高い男が立っていた。

 シーラがさっと立ち上がって、マナトの前に出た。

「シーラ。何やってるんだ? マナトを連れて来いって言っただろう?」

「冴島さん、これには…」

 そうシーラが言うか言わないかのうちに、冴島さんと呼ばれた男が目にも止まらぬ速さで動き、シーラに足払いを仕掛けてきた。
 こんなに早く動く人をマナトは見たことがない…と思ったが、彼の動きをしっかり目で終えている自分にも驚いていた。

 シーラは寸でのところで冴島さんの蹴りを交わして、ジャンプすると、できるだけ冴島さんから離れた場所に着地した。
 だが、それと同時に、素早く動いた冴島さんに後ろ手を取られてしまった。

「シーラ、私が玄関に近づいた気配にも気が付かず、簡単に後ろを取られているようでは、長生きできないぞ。」

「ごめんなさい…。」

 冴島さんは乱暴にシーラを放すと、自分はドカッとマナトの横に腰を下ろした。
 マナトはこの人が自分たちの上司であると何となく悟り、湿布を貼るために脱いでた上着を着た。

「状況報告。」

 冴島さんが言った。シーラは立ったままで心持ち姿勢を正すと、今までの経緯を簡単に話はじめた。

「状況報告します。昨日、計画どおりにマナトを第五層から連れ戻すことに成功しました。が、トラブルに巻き込まれてマナトが負傷したために、怪我の治療にあたっていたところです。」

「ウソつけ。いいから本当のことを報告しろ。」

 シーラはもう一度、姿勢を正した。

「マナトと合流後、ソウヤがすぐにルーペを使いましたが、マナトの記憶が戻らなかったので…」

「何だって?」

「記憶が戻らなかったんです。」

「本当なのか?」

 冴島さんに聞かれて、マナトは肩をすくめた。

「マナト、ジェイクにケツをなめさせられたのか?」

 冴島さんに言われたことの意味が解らずに、マナトがシーラの方を見ると、シーラは慌てた表情をしていた。

「確かに、記憶はないみたいだな。どうしてなんだ?」

「わかりません。2回やりましたが、2回目は全く何も起きませんでした。」

「まずいな…記憶が戻らないとなると…おそらく改ざんもできないだろう。この状態でマナトを本部に戻したら監禁されてモルモットだぞ。」

「ソウヤもそれを懸念していました。どうしたらいいでしょう?」

 うーん…と冴島さんは考え込んでしまった。最初の印象とは違ってこの人は味方のようだ。

「私に考えがある。シーラはソウヤたちと合流してくれ。後で連絡を入れる。」

 シーラは部屋を出て行き、マナトは冴島さんに連れられて、外に停めて車に乗った。
 車は物騒な街を抜けて、高層ビルが立ち並ぶエリアへと入って行った。この世界では貧富の差が激しいようだ。

「これから何をするんですか?」

 マナトは恐る恐る聞いてみた。冴島さんはチラッとマナトの方を見て、ふっと笑みをもらした。

「しおらしいお前は気味が悪いな。心配するな。悪いようにはしない。私はお前を子供の時から訓練してきた教師だ。信用してくれ。まあ、私のことは覚えてなくてよかったな。死ぬほどしごいてきたからな。」

 そんなに長い間かけて教育してきた生徒が全て忘れてしまって、この人はもしかして、寂しく思っているのかな…とマナトは思った。

「ごめんなさい。覚えていなくて。」

「謝ることはない。いずれにせよジャンパーは忘れる運命だ。慣れているよ。」

 車は大きな建物の前についた。ぱっと見て病院だと分かった。
 地下の駐車場に着くと、冴島さんが後ろのトランクから何やら取り出して来た。

「変装しろ。ここにはお前の顔を知ってる奴も出入りしている。」

 渡されたものを見るとカツラと大きめのパーカーだった。
 マナトは女に変装した。

「お前は本当に女装が似合わないな…これもしろ。」

 渡されたサングラスをつけた。

 冴島さんと一緒にエレベータへ乗ると、55階まで一気に上った。
 廊下を少し行った先の会議室のようなところに入った。

「ここでちょっと待ってろ。10分ほどで戻る。誰も来ないと思うが、万が一誰か来たら医者に待ってろと言われたと言え。女のフリを忘れるなよ。」

 そう言って冴島さんは出て行ってしまった。
 窓のない部屋だった。マナトは何もせずにただ座って冴島さんを待った。

 時計がないので、何分待ったかわからないが、冴島さんが医者らしき中年の男を連れて戻って来た。
 医者はマナトを見ると、少し警戒するような表情をした。

「こいつはお前のことを覚えていないよ。話しただろう?」

 医者はうむ…と頷いて、マナトの方へと近寄ってきた。
 手にはアタッシュケースを持っている。それを開くと、いくつかの道具が入っていた。

 医者はまず、ペンライトのようなもので、マナトの両目を照らした。
 その後、歯型を取り、採血をした。

「これで、1時間もあれば作業はできるぞ。」

 医者が言った。

「何をするんです?」

 個人を特定できる情報を取られたので、マナトは念のために聞いてみた。

「お前を死んだことにするんだよ。ちょうどお前くらいの年恰好のホームレスの遺体があったからな。」

 聞かなければよかったとマナトは思った。

「じゃあ、先生、頼んだぜ。金は今日中に振り込んでおく。」

 医者は頷くと、マナトに一瞥を投げ部屋から出て行った。

「さて、これから私も一仕事だ。マナト、お前はここで待ってろ。ナギって奴を迎えによこす。顔、忘れてるよな。こいつだ。」

 冴島さんがポケットから携帯を取り出し、画面を見せてきた。覗くと眼鏡をかけた頭のよさそうな男の写真が表示されていた。

「ナギが来たら、一緒にここを脱出しろ。それまで、この部屋から顔も出すな。そのカツラはずっと被ってろよ。」

 マナトは再びこの部屋で一人になった。
 ひたすらじっと待った。廊下を覗いてみたい衝動に何度か駆られたが、ぐっとこらえた。
 ここでヘマは許されない。おそらく冴島さんは自分の人生をかけてマナトを守ろうとしてくれているのだ。その想いを無駄にすることは断じて許されないのだ。

 マナトはカタリとも物音ひとつ立てずに、息をするのも最小限に抑えて待った。
 幸い、会議室の椅子は座り心地がよかったので、お尻が痛くなることもなかった。

 時々廊下の外から足音がして、その度にマナトは緊張して身構えていた。
 人が入ってきたら、まずは向こうが何かを言うのを待って、適当な返事をする。それが冴島さんから指示されたことだった。

 こうして息をつめて待機していると、ガチャと音がしてドアが開き、白衣の男が一人入って来た。
 マナトの心臓は早鐘のように鳴り始めたが、できるかぎり冷静さを装い、男の方を見た。

 男は部屋に入ってくると、ぺりっと口髭を剥がした。
 白衣の男はナギだった。メガネをはずしているが、冴島さんに見せてもらった写真の奴だとすぐわかった。

「何をびくついてるんだ。行くぞ。」

 ナギはそう言うと、再び口髭をつけた。
 マナトもポケットからサングラスを出した。

「そんなんじゃ余計に怪しいな。こっちにしろよ。」

 ナギがマスクをくれたので、マナトはサングラスはポケットにしまい、マスクをした。

「そのカツラ、似合わないぞ。」

 そういうと、ナギはドアをあけて廊下に出て行った。マナトも続く。

「キョロキョロするなよ。」

 ナギが小さな声で言った。

 ここに来る時に乗って来たエレベータに乗り、地下まで降りた。一度看護師が乗って来たが、マナト達を見ることもなく、数階下で降りて行った。

 駐車場に着くと、冴島さんが乗って来た車にナギが乗り込み、マナトにも乗るように言った。
 そして、ナギは車を走らせて病院を後にした。

「冴島さんは?」

「大丈夫だ。後で合流する。まずは381に戻るぞ。」

 15分ほど車を走らせ、マナトとナギは381号室に戻った。
 ナギはいつの間にか髭を外して眼鏡をかけていた。

 マナトは部屋に戻るとやっとほっとしてカツラを取った。

 ナギが冷蔵庫をあけて缶に入った飲み物を取り出すと、開けてグビグビと飲んだ。
 一息ついて、同じものをマナトにも出してくれた。開けて飲むと、ビールによく似た味のアルコールだった。

 マナトもグビグビとそれを飲んだ。

「ナギ…くんだよね? 助けてくれてありがとう。」

 それを聞いてナギは口に含んだ飲み物を吹きだして咳込んだ。

「“ナギくん” とか言うなよ、心臓に悪い…。」

「ごめん、俺、何も覚えてなくて。」

「ああ、わかるよ、俺もお前と同じだったから。」

「君も五層にいたの?」

「そうだよ。俺はなぜか学生をしていた。お前、あのホテルで働いてたんだろう? すげーな。記憶が消されてるのによく辿りついたな。」

「いや…偶然だと思うけど。」

「偶然で行くかよ、あんなホテル。」

 確かにそうかもしれない。どういう経緯であのホテルの面接を受けることにしたのかよく覚えていなかった。
 マナトが記憶を掘っていると、ソウヤとシーラが戻って来た。

 冴島さんの姿がないので、マナトがキョロキョロしていると、「冴島さんは夕食を調達しに行ったよ。」とシーラが教えてくれた。

 しばらくすると、大量の食事を持って冴島さんもやって来た。

「マナト、無事、お前は死んだぞ。誰だかわからないけど、遺体の提供者に感謝するんだな。」

 冴島さんはテーブルに食べ物を並べながら言った。

「食いながら今後のことを話し合おう。まずは…」

 冴島さんが先ほどマナトたちが飲んでいたのと同じ銘柄の飲み物をみんなに配った。
 冴島さんは2本の缶を開け、1本を持ち、1本をテーブルに置いた。

 全員が缶を開け終わると、「ジャンパーたちの帰還に…」と冴島さんが言った。
 彼らは無言でそれを掲げ、飲んだ。

 テーブルに置かれた缶。あれはきっとジェイクという奴の分だ。マナトは思った。
 どんな奴だったんだろう。自分と仲が悪かったらしいが。忘れてしまって申し訳ないと思った。

「さて、じゃあ食おうか。」

 冴島さんが言うと、ジャンパーたちは食べ物にがっつき始めた。
 マナトも腹ペコだったのでガツガツ食べた。

「これからどうするんですか?」

 ソウヤが言った。

「マナトは新しい家が準備できるまで、しばらくここに居るのが安全だろう。」

 冴島さんが言った。それには全員が賛成のようだった。

「で、次期リーダーはソウヤだ。異論ある奴は?」

「異議なし。」

 シーラとナギは片手をあげて賛同の意を示した。マナトもそれに習い片手をあげた。

「では、ソウヤを今から第13代リーダーに任命する。すぐに381に引っ越してこい。ジャンパーの増員は当分申請しない方がよさそうだ。3人になってしまったが回せるか?」

「冴島さんのスケジュール次第ですよ。」

 ソウヤが言い、冴島さんが笑った。

「じゃあ、ちょっときついが頑張ってもらおう。」

 これで今後の話は終わったようだった。マナトは自分がこれからここでどう生活していくのかさっぱりイメージがわかなかった。
 記憶が戻ることはあるのだろうか?

「冴島さん。俺の記憶は戻るんですか?」

 マナトの問いに、冴島さんは真顔になった。言葉を選んでいるようだ。

「おそらく、お前の記憶は戻らない。」

 それをはっきり聞いても、マナトには何の感情もわかなかった。もともと持っていないものが手に入らないと言われても、何とも感じないのと同じだった。
 何も感情がわかないのが、自分で少し怖かった。

 ソウヤとシーラは早々に酔いつぶれてしまった。ナギが起こそうすると、冴島さんがその手を止めた。

「寝かせてやれ。このところずっと働き詰めだったんだ。」

 冴島さんはテーブルに突っ伏して寝ている二人を両脇に抱えると、寝室に運んでベッドに寝かせた。
 二人は子犬のように丸まって布団にもぐり込んで行った。

「明日から普通に稼働するそ。お前らも早く寝ろ。」

 そう言って冴島さんは帰っていた。
 ナギは肩をすくめてコーヒーを淹れるとマナトにもくれた。

「君はあまり飲んでいないね。お酒は飲めないの?」

「俺は今日退院したばかりの病み上がりだぞ。」

 二人は無言でコーヒーをすすった。

「何も感じないのが不気味なんだろう?」

 ナギが言った。マナトは彼が何のことを言っているのかすぐにわかって頷いた。

「失ったと言われても失ったことすら覚えていない。いっそのことあのまま五層でそっとしておいて欲しかったと感じたことはないか?」

 マナトは考えてみた。あそこでの生活を続けたかったというと、そうでもない自分がいた。

「いいや。俺は発見してもらってよかったと思っているよ。」

「ほんとかよ? お前やっぱり変人だな。」

「ナギもすぐに記憶は戻らなかったの?」

「ちょっとの間だけな。ほんの数時間だ。それでも生きた心地はしなかった。こんなゾッとすることはない。いっそのこと殺してくれてって思ったよ。」

「そうかぁ?? 俺は君たちの存在を知らずにいたかもしれないと思う方がゾッとするよ。」

 それを聞いてナギは真剣な顔になった。

「俺たちはお前のことを忘れる運命だぞ。」

 そうだ…わかっている。
 彼らはいつか引退したら、赤の他人として別々の人生を歩んでいくのだ。

 必ず生き別れると知りながら、でも兄弟のように寄り添って生きている。
 その感覚は、マナトにもわかるような気がしていた。

 …いやまてよ、サイトの情報では記憶を消されなかった元ジャンパーと名乗る人物がいると書いてなかったか?
 マナトは急に思い出した。ナギはそれが誰だか知っているのだろうか?

「そういえば、ジャンパーのことで読んだんだけど、引退後も記憶を消されずにテレビで暴露した人がいたんじゃないか? 記憶が消えないこともあるの?」

「いいや、それはあり得ない。あれは偽物だよ。十中八九、内部の事情を知る人間が金目当てやったんだ。」

 ナギは戸棚から煙草を取り出して火をつけた。

「ジャンパー当人だったらあんな風には話せないよ。お前はどうなんだ? 興味本位で聞いてくる奴に話せるか? 俺たちのことを。」

 マナトは首を振った。
 おそらく幼少期から培ってきたと思われる絆は忘れてしまったが、このたった2日間で彼らとはすっかり家族になった気持ちがしていた。

 ナギはふーーっと煙草の煙を吐き出した。

「俺が最初に捕まったんだ。」

 唐突にナギが言った。

「あいつら急に湧いて出たんだ。それで応戦したジェイクがやられた。」

 そう言ってナギは唇を震わせた。

 ナギは、マナトがこうなった経緯を放し始めたのだ。彼が語ってくれるのはこれが最初で最後だろう。自分自身に言い聞かせているような口調だ。
 マナトはナギの全ての言葉を記憶しようと無言で聞き入った。

「黒帽子は三層の381に急に出てきたんだ。俺はそこからすぐに五層に移動させられて…。あいつら、変な仮面をつけているんだけど、それを取ったら気味が悪い目ん玉が見えた。それで、気が付いたら大学の学食の前に立っていたんだ。あれ?俺、昼飯食おうとして…その前は何してたんだけ?と思ったのを覚えている。数日間、そこで学生をやってたと思う。飲み屋でシーラと出会って、ホテルに行こうと誘われて、のこのこついて行って、五層の831に入ったんだけど、そこでまた黒帽子が出た。」

 ふーーっと再び煙を吐くナギ。

「俺は腹を負傷して動けなくなったが、ギリギリのところでシーラが機械を動かしてここに戻って来た。それで、記憶を戻してもらってから、お前が捕まったことを聞いた。ソウヤとシーラは詳しく話してくれないけど、お前はあいつらを助けるためにわざと捕まったんじゃないかな。黒帽子は不気味だけど、そこまで強くない。小賢しいだけだ。お前が本気で戦ったらやられるはずないんだ。」

 ナギは煙草を吸い終わると自分の家へと帰って行った。

 マナトは寝室に入って、眠っているソウヤとシーラを見た。
 彼らが自分のことを忘れてしまったら、マナトは孤独に思うだろう。でもそのかわり、マナトは彼らを忘れることはないのだ。

 ずっと俺は忘れないから…。

 子どものように眠る二人の頬に指先で少し触れてから、マナトはリビングのソファーで眠った。

・・・

 ガチャガチャとうるさい音でマナトは目を覚ました。
 キッチンでソウヤとシーラが朝食を作っているのだった。

 マナトが起き上がると、ソウヤが気が付いた。

「やっと起きたのかよ。マナトも食べるか?」

「昨日あんなに飲んだのによく朝食なんて食べる気になるな…」

 マナトがあきれていると、シーラがコーヒーを持ってきてくれた。

「優秀なジャンパーは回復も早いんだぜ。」

 3人が朝食を食べているとナギがやって来た。
 昨日より心なしか顔色がよく見えた。さっきシーラが言った回復が早いというのは冗談ではなかったのかもしれない。
 ナギはマナトに何か小さなカードのようなものを渡すと、自分のコーヒーを入れて飲み始めた。

 朝食を食べ終わるとすぐに、マナトが例の機械を取り出した。

「もう行くの?」

 まだ朝の7時だ。仕事を始めるには早すぎないかとマナトは思ったのだ。

「今日は二層の処理だ。やばいんだよ二層。グスグスしてられない。いくぞシーラ。」

 マナトとシーラは素早く武装して行ってしまった。
 今日はナギが自分のお守りなのか…?と思ったのだが、ナギは部屋から出て行こうとしていた。

「君も行ってしまうの?」

「ああ、一人にして悪いな。俺はまだ本調子じゃないから、こっちでの仕事なんだ。ここにはソウヤに渡すものがあって寄っただけだ。夕方には戻るから大人しくしてろよ。」

 ナギが出て行った。一人になったマナトはやることがないので、タブレットでいろいろこの世界のことを調べることにした。
 しかし、どうも集中できずに、うとうとしていると、いきなりタブレットからビュンビュンビュンと恐ろしい音が鳴りだした。

 心臓が止まるかと思うほどびっくりして画面を見ると、黄色い画面に赤い大きな文字で「特別緊急警報」と出ていた。

 どうやっても音が鳴りやまないので、慌てていると、テーブルの上の機械がカチャカチャと早く動き出し、人影が現れた。

 まさか!黒帽子か!? と身構えたが、出現したのはシーラとソウヤだった。
 ソウヤは倒れており、シーラが泣き叫びながら彼の足を布で縛っていた。

 マナトは仰天して彼らに近寄ると、ソウヤの右足のヒザから下が無くなっているのが見えた。

「ああ…何てことだ!!! 何があった!? あいつらにやられたのか?」

「違う!地雷だよ!二層の奴ら、対人地雷なんか使いやがって…! 対人地雷なんか悪魔の使う武器だぞ!」

 シーラが怒りに満ちた声で叫んだ。

 マナトは急いでキッチンから布を持ってきてシーラに渡した。
 彼女はそれで追加の止血を始めた。

「特警を出したからすぐに人が来る。マナトは寝室に隠れてろ。」

「でも…」

 外でサイレンの音が鳴っていた。

「いいから行ってろっ!」

 シーラに怒鳴られてマナトが寝室に入ったと同時に玄関のドアが開く音がして、何人かがドカドカと入って来たようだった。
 マナトは寝室のドアに耳を押し当てて向こう側の音を聞いた。

「救護班!応急処置を!」

 きびきびした男の声がした。

「状況報告!」

 冴島さんの声だ。

「二層で…ヒック…捕虜になった…ヒック…ニルソン大佐を救出作戦中に…ヒック…サポーターが被弾し…ヒック…彼を外壁の影に移動させてる途中で…じ、じ、対人地雷が…」

「もういい、わかった。」

「応急処置完了!運びます!」

「よし、行け!」

 ドカドカドカと足音がしておそらくソウヤが運ばれて行った。

 寝室のドアに耳を押し当てているマナトに、低い冴島さんの声が聞こえて来た。

「マナト、そこにいるな。返事はするな。迎えに来るから、絶対にこの家から出るなよ。」

 冴島さんがドアから離れていく気配。続けて「シーラ、立て。行くぞ。」と優しく言うのが聞こえた。

 外で再びサイレンが鳴り、マナトは窓の影からソウヤが搬送されるのを見送った。

 マナトはしばらく寝室でじっとしていたが、意を決してゆっくりとリビングへ戻った。
 リビングの床にはソウヤの血が水たまりのようになっていた。

 こんなに血が…。ここに来る前にも相当出血しているだろう。

 ソウヤの命がそこに溜まっているように思えて、なかなか拭き取る気持ちにはならなかった。
 マナトはずっとその血だまりを見ていた。

 どれくらい経ったのかわからないが、ナギが入って来た。

「おい!何やってるんだ? 大丈夫か?」

 ナギに揺さぶられてマナトはやっと我に返った。

「これかぶって、行くぞ。」

 ナギは棚からカツラを出すとマナトにかぶせた。

「マスクもして。」

 マナトは言われるがままマスクをした。

「ソウヤは?」

「大丈夫だ。生きてる。」

 その言葉にマナトは全身の力が抜けそうになった。
 ナギに手を引かれ車に乗り、マナトは再びあの大きな病院へとやってきた。

 地下の駐車場から36階へ上った。

 病室の前に冴島さんが立っていた。

「調査は今終わった。しばらく本部の関係者は来ない。」

 マナトとナギは病室に入った。
 ソウヤは上半身を起こしてベッドの上に座っていた。
 シーラがげっそりした顔で横に座っている。

 あれだけの大ケガをした割には軽装備で、ソウヤからはいくつかの点滴が繋がっているだけであった。

「なんだ、それ? お前そのカツラ似合わないぞ、マナト。」

 ソウヤが言ったが、それについては誰も何も返事をしなかった。

「起き上がって大丈夫なのか?」

 ナギが声をかけると、ソウヤはニヤッと笑って言った。

「片足が吹っ飛んだだけだからな。傷口はもう閉じてもらったし、輸血もさっき終わった。」

 マナトとナギもソウヤのベッドの横に座った。
 ソウヤは真剣な顔になって、全員の顔をゆっくり見渡した。

「さすがに…これではジャンパーは続けられないよ。俺は引退だ。」

 みんな無言だった。それは揺るぎない現実だったからだ。

「史上最速で交代したリーダになっちまったな…」

 ソウヤは寂しそうな笑みを浮かべた。

 ジャンパーが引退するとき、その日程や移動先、新しい名前などは元の仲間には一切知らされない。
 完全に縁を断ち切り、全くの別人になってしまうのだ。

 ソウヤは、それから一度もマナトたちとは会うことはなく、引退の手続くを終えて去って行った。
 多くのジャンパーがするように、ソウヤもまた自ら新しい名前と身分を選んで申請し、第二の人生を歩み始めたということだ。

 831はシーラの家となっていた。と言ってもマナトもまだそこに住んでいたし、ナギもしょっちゅう出入りしていたので、実質3人で暮らしているようなものだった。

 いつものように3人で夕食を食べていると、冴島さんがやってきた。

「なんだお前たち、葬式みたいな顔して。」

「本部のメンタルケアが効いてないんですよ。」

「もっと強い薬をください。」

 ナギとシーラが次々に言った。

「そんな悪態がつけるんだったら大丈夫だろう? お前たち喜べ。来週からジャンパーが3人増員されるぞ。」

 それを聞いてナギとシーラは助かった…という顔をした。

「マナトはどうするんです?」

 ナギが聞いた。
 マナトは本部では死んだことになっている。新しいメンバーが来るのであればここにはもう居られないだろう。

「マナトの移動先を早急に探さないとな…。時々本部に探りを入れているんだが、マナトの死に疑いを持たれている感じはないようだ。この街から遠く離れたところに行けば、偽名を使う必要もないくらいかもしれん。」

「それだったら、ひとつお願いがあるんです。」

 マナトはこれまでずっと考えていたことを思い切って冴島さんに相談してみることにした。
 それは…

・・・

 よく晴れた温かい日だった。
 俺は前園さんの運転する車に乗っていた。

 車が目的地へ到着し止まる。

 前園さんが運転席から降りて、こちらに回って来る。

 俺の横のドアが開けられて、「ぼっちゃま、到着いたしました。」と前園さんが言う。

 俺は右足の太ももを持ち上げて車の外に出す。続けて左足も地面につけて右手では杖を握ると、よいしょと立ち上がった。
 その間、前園さんは車のドアを押さえて立っているが、手は差し伸べてこない。自分でやれることはやる、と俺が指示しているからだ。

 俺を杖を突きながら歩き始めた。右足のヒザから下は義足だ。
 先日事故で失った。

 ひどい事故だった。足を失ったというより、命を取り留めたと言った方がいい状況だ。
 義足は練習すれば杖ナシでも歩けるようになると聞いた。もちろん走ることも。
 あれだけの事故に巻き込まれたのに、また走れるようになるなんて。こんなに幸運なことはあるだろうか?

 俺はこの与えられたチャンスを活かして、陸上選手になることを決めた。
 事故にあわなかったら、こんなことは思いつかなかったかもしれない。

 それにはまずはリハビリだ。
 俺は全国でも厳しいことで有名なスポーツ選手御用達のリハビリセンターにやってきたのだ。

 幸い、俺には両親が残した巨額の財産がある。
 時間と金はいくらでもあるのだ。

 入院手続きを済ませて部屋に落ち着くと、前園さんは帰っていた。
 なるべく身の回りのことは全部自分でやろうと決めていた。

 しばらくすると、自分の担当の理学療法士が来て、俺がこれから1年かけてやるメニューをざっと説明してくれた。
 かなりきつそうだったが、どれほど動けるようになるのか楽しみでもあった。

 さっそく明日からリハビリは開始されるようだった。
 今日はゆっくり休んでおくように言われたので、1階の売店に行ってみた。

 売店には何でも売っていた。
 これならこの建物に監禁されたって不自由はしないだろう。

 売店にチョコレートバーの販売機を見つけた。

 さっそく一つ買おうとしたが、金を入れても出てこなかった。

 バンバンと機械を叩いたが出てこなかった。

「ああ、それ、時々出てこないんだよね。」

 突然横で声がしたので振り向くと、自分と同じくらいの年齢と思われる男が立っていた。
 そいつが機械の横をドンッと一発殴ると、チョコレートバーがガタンと出てきた。

 俺はそいつにお礼を言ってチョコレートを取り出した。

「君、ここに入院してるの?」

 男は離れていくわけでもなく、話しかけてきた。

「ああそうだよ。今日から入ったんだ。」

「そうなんだ。ここのリハビリは相当きついよ。」

 男はチラッと俺の足を見て言った。

「そうらしいね。君も?入院しているの?」

 男がどこも悪そうには見えないので聞いてみた。

「いや、俺じゃなくて家族が入院してるんだ。ここではあまり話し相手がいなくてさ。また会うことがあったら時々話してもいい?」

 変な奴だな…と思いながらも、俺は特に嫌な気もしなかった。自分もこの病院で孤独なのだ。友達ができるのはいいことかもしれない。

「いいよ。いつでも。」

「よかった!俺はマナトだ。」

 マナトと名乗った男が手を差し出して来たので、俺もその手を握り返した。
 気のせいかもしれないけれど、何だか少し懐かしいような気もちがした。

「ああ、よろしくな。俺は、ジェイク。ジェイク・スギノって言うんだ。」

 それを聞いてマナトは微笑んだ。

「ジェイク、君と知り合えてうれしいよ。よろしくね。」

 マナトの笑顔は、とてもとても柔らかい表情だった。

(おしまい)

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