自己啓発本と哲学書

北海道にも緊急事態宣言が。札幌市にある電子図書館なるものを利用。アランの「幸福論」という哲学書を読んでいる。まだ全体の5%しか読んでいないのにもう感想を書きます。

「自己啓発本」と「哲学書」

読書をしなかったころ、この2つの違いすらよくわからなかった。物語以外の本を「自己啓発本」だとすら思っていました。

※以下「自己啓発本」と「哲学書」を比較して記述。主語を大きくしているため、その性質を持たない本まで巻き込んでしまっているかもしれないが、全て1つの例、個人的見解として読んでください。(保険)


自己啓発本…、例えば「最強の自己コントロール力」みたいな自己啓発本があるとします。そこにはストレス対策や呼吸法といったテクニックがビッシリ書いてあったり、そのテクニックよって著者が受けた恩恵や、自慢に近い武勇伝が語られていたりするもんです。読めば勇気が湧いてきて、あたかもすでにそのテクニックを習慣化することができ、恩恵を受けることが確約されたかのような高揚感を味わうことができます。

こういった本のデメリット。それは「実践がうまくいかなったとき、ちょっと情けない気持ちになる」ということ。羅列されたテクニックを習慣化すれば必ず恩恵を受けることができるはず、だがこの「習慣化」が難しいのです。人類の永遠のテーマなのか?と思ってしまうほどに難しい。

仮にうまいこと習慣になったとして、恩恵を受けるまでは「時間」が必要になります。事前に素晴らしい恩恵についてを知ってしまったため、恩恵を得られるまでの長い道のりに耐えることが出来ないんですよね。

そして、いつしか習慣化すら出来なくなり、恩恵もテクニックもなにもかも忘れ、実践することもなくなり「自己啓発本は意味がない」と勝手に結論付けてしまったりする(マジでそんなことはないよ)。こんなことから「意識高い系」みたいな言葉を使われて、バカにされる対象であったりするのかもしれません?

哲学書はどうでしょう。哲学とはつまるところ「考え方」です。実践や行動などのアウトプットの必要性が低い(と勝手に思っている)。日常にどのように影響を与えるのか。それは何か物事を考えたときに、なにかがフックになって唐突に「ぽん」と言葉が出てくるような感じ。いつか読んだ哲学書の言葉が手助けをしにきてくれるような感覚です。

これは非常に「優しい」性質を持っていると思うのです。強要もしない、成功を煽ったりもしない、ぼんやりした不安や、幸せの根源を追求してばかりいます。わかりづらい表現をしてくれているおかげで「頭いい人がなんか言ってるな」で済ますこともできますね。

「なぜこんなに自己コントロールが下手なのだろうか。なぜこんなに同じ愚痴を性懲りもなく繰り返すのだろうか」自分というのが恥ずかしく情けなくなる。同時にすごく不安になる。こう考えるのだ。「自分の考えそのものが毒されている。自分自身の立てる理屈が自分に盾をつく。自分の考えを操っているこれはなんなのだろうか」

超悩んでますね。これに対して次のページに「こんなときはこうするべきだ!」なんて文章は出てきません。でも同じことを考えている人に出会えて、それだけで嬉しくなれるんです!他の哲学者はこのことについてこう言ってますよ。くらいにしか出てこない。なんて優しいんでしょう。

読書初心者のときは自己啓発本が大好きでした。読んだときの高揚感。実践したときの変化。全てが喜ばしく、嬉しいものでした。「読書したほうがいいよ」ってこれだったのか!なんて思い込んでいました。でも、ジャンルが違うだけでこんなにも変化があるんです。「読書した方がいい」からレベルアップして、「どう読書するか」を考えられるようになりたいですね。

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