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【オチのない話】親しい関係ほど気を遣い、ドライな関係ほど自然体でいられる

家族以外の親しい人との関係において、私は非常に気を遣う。気を遣いすぎて心が疲れてしまい、親しい人との関係を一気に断ち切りたい衝動にかられることすらある。

たとえば、親しい相手からの誘いはめったに断らないが、どうも自分から親しい相手を誘うのは苦手だ。

「私に誘われることなど相手は望んでいないのでは?」

などのネガティブなことを考えてしまい、どうしても声を掛けられない。こちらから声を掛ければ喜んでくれそうな親しい人ほど声をかけるのが怖い。思い切って本音を言えば、それで相手に嫌われることを恐れている。

大事な人だと思っている相手だからこそ、自分から声を掛けて相手の時間を奪うのが申し訳ない、それで嫌われたくないと思ってしまうのだ。

たぶん「いじめで仲間外れに遭った」とか、「こちらから誘った相手が当日ドタキャンした」などのことが重なり、トラウマとなったのが原因だろう。

それで自分から誘うことに臆病になったと思うが、50歳を超えてもその点で進歩がないのは情けない。

その一方で、仕事であれば問題なく自分から声をかけられる。銀行員やライターの仕事では飛び込み営業だって平気でやってきた。PTAや町内会、イベントボランティアなどでもそれは同じである。

そんなときはなんらかのスイッチが入り、「社交的で押しが強いキャラクター」が表に出るらしい。一緒に仕事をした人が言うのだからたぶん客観的な事実だろう。

仕事やボランティアなどでつながった人との関係は非常にドライである。もちろん、中には友人など親しい関係に昇格する人もいるが、大半の人は私がその仕事を辞めれば見ず知らずの赤の他人に戻ってしまう関係だ。

そのような関係が私にとって非常に気楽であることは間違いない。

社会人としての礼儀と節度、少々の人情があれば成り立つドライな関係は、私にとってプライベートな人間関係よりもよっぽど気疲れが少ない。

それもあり、仕事上の人間関係はおおむね良好である。嫌なことがあっても、「所詮仕事だけの関係」と割り切ることで相手に優しくなれる。

こちらが優しくなれば相手のとげとげしい態度も鳴りを潜め、良好な関係になることも多い。

どうやら、長年の人生経験を経て、世の中をうまく渡れる程度の社交性はついたらしい。

私は親しい他人といると非常に緊張して不自然になり、ドライな関係の他人といる方が自然体になる。おそらく普通は逆だと思うが、私はやっぱりドライな関係の方が楽なのだ。

もちろん、自然体で接することができる親しい他人はいるが、非常に少ない。親しくなっても自分から声を掛けるのが怖いので関係を維持することが難しい。

人生の後半になって世渡りが上手くなったのは結構な話だが、人生の後半になっても相変わらずプライベートな人間関係をうまく構築できないのってどうよ?とも思う。

頭では「自分から相手に働きかけるのが一番」だとわかっていてもそれが難しい。相手との距離を詰めすぎて引かれるのがまだ怖い。たぶんちょっとの勇気があれば解決するのに、その勇気が出ない。

そんなことを悩みながら日々悶々とする今日この頃。

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