私にとって文章を書くことは「排泄」に近い(と最近気づいた)
先日「なつぞら」で主人公の幼なじみの青年がこんなことを言っていた。
「畑仕事は食うことで、絵を描くことは排泄かな」
それを聞いた時、「ああ、私が文章を書くのも『排泄』だわ」と、深く納得した。
今、フリーライターという肩書でもらっているお金の大半は、現在または将来「食う」ために使ったり貯めたりしている。
しかし、お金をもらおうがもらうまいが、私は文章を書くという行為がやめられない。意識して書かないようにしていると、体の内部にどんどん言葉がたまっていき、出さずにはいられなくなるのだ。
それは、まさに「排泄」を我慢しているときのような感覚に非常に似ている。
といっても、昔からそうだったわけではない。書くことが「排泄」になったのは、インターネットと出会ってからだ。つまり、インターネットのおかげで、自分の内にあるものを文章で表現するという手段を知り、書くことが「排泄」になったのだ。
◇
子どものころから書くことに情熱を燃やしていたわけではない。書くことが苦になったことはないが、特に好きでもなかった。だから、当時私が書いたもので発信的な意味合いを持っていたのは、学校の宿題で出た作文や、短大の卒業論文くらいだ。
もちろん、昔から文章を書くことは、私にとって日常生活の一部だった。しかし、当時は今ほど強烈に書きたい衝動に駆られていたわけではない。なんとなく条件反射的に書いていたにすぎない。
そんな私が「書く」ことを自己表現の手段として意識し始めたのは、子どもが生まれて何かと不自由な身分になってからだ。胸にたまった育児ストレスをぶちまけるために、始めたばかりのパソコン通信で文章を発信したのがきっかけだった。
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育児や子どもに全く関心がなかった夫、育児の悩みを少しでも話せば「自分の方が大変」とマウントを取る実母や義母、そしてママ友。そんな人たちを相手に胸の内を話すとよけいにストレスがたまった。
それで、別の手段で発散する方法を探している中見つけたのが、パソコン通信、つまりインターネットで文章を発信する手段だった。
パソコン通信は、書いたものに対する反応が面白くてかなりはまった。インターネットになってからはもっと深く書くことにはまっていった。
そんな毎日を過ごしていたある日、いつの間にか胸の内にたまっていた負の感情がなくなり、心が楽になっていることに気づいた。それは、長い時間我慢し続けていた「排泄」が終わった時の爽快感によく似ていた。
その日から書くことが「排泄」と同じ位置づけとなった。よもや書くことが仕事になるとは思いもよらなかったが。
◇
そんなことを考えているうちに、ふと気づいたことがある。
プライベートで書く文章も仕事で書く文章も、私にとっては「排泄」だといういうことだ。
そんなことを言うと、「おまえはなにを言い出すんだ!」とお叱りの言葉を受けるに違いない。「読者に向かって排泄しているのか!」と殴られても文句は言えない。でもそう思ってしまったのだからしょうがない。
もちろん、仕事ではクライアントや読者の利益になる文章を書くことが必要で、自分が書きたい文章を書くわけにはいかない。そういう意味での「排泄」は、プロとして決してやってはいけないと思っている。
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しかし、「自分が読みたい文章」や、「読んだら自分の利益になる文章」と言った形で読者側に立ってみたらどうだろう?ガラッと目線が変わり、それまで見えなかった「読者のニーズ」や「クライアントの目的」が見えてくるはずだ。
そのような読者目線で何を書けばいいかを考えれば、掲載メディアにアクセスする読者が必要としている情報がわかる。その人たちが欲しい言葉もわかる。それらを読みやすい記事にして読者に提供するのがライターの仕事だ。
そのような記事を書ければ、読者の胸の中にたまっていたモヤモヤが排泄され、すっきりするに違いない。それで利益が出れば、クライアントもすっきりしてみんなハッピーになる。
私が仕事で書く文章もまた「排泄」だと言った理由はそこにある。
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とはいえ、私がそう思うようになったのはつい最近のこと。ライターを始めてから4年近くたってようやく気づき始めた次第だ。
また、気づいたからと言って、必ずしも読者がすっきり「排泄」できる記事が書けているわけではない。毎回産みの苦しみを味わいながら必死で書いているにもかかわらず、そのような会心の記事はなかなか生まれないところが、この仕事の難しいところだ。
それでも、私はこれからも「排泄」するように文章を書き続け、仕事としては読者が少しでもすっきり「排泄」できる記事を目指したい。そのために、今後も日々精進したいと思っている。
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