魂をどれだけ煮詰めるかという話がしたい

いま、これを、ぼろっぼろに泣きながら書いている。
好きな二次創作小説が消えたからだ。MMDといい、同人誌といい、消えていくのは世の習いなのかなんなのか、わかってはいたし、初めてのことでもないのだが、だからこそなおさら、どうして自分が今ここまでダメージを受けているのかわからない。

涙が止まらない。

好きだった。呆然と読み終わり、とりあえずは寝て、もう一度かみしめようと開いたら、消えていた。大抵のものはうあぁああ……とうめき声をあげながらも折り合いをつけるのだが、今回はちょっと、自分でも引くくらいダメージを受けている。つらい。本当に好きだったのに。消えたときのダメージで自分の性癖への刺さり具合がわかるの、あまりにも精神衛生によくない。ああ、私はこの作品がむちゃんこ好きだったんだ、って消えてからしみじみと思うの、すごく、……すごく、つらい。

一週間は引きずる気はしているのだが、とりあえず、私の失意はいったん横に置いておこう。

即時性ではなく、同時性ではなく、魂をどれだけ煮詰めるのかの話がしたい。
金曜ロードショウをみんなで見る。ツイッターで感想を言いあいながら。
配信者の配信に集まる。わいわいと、コメントで歓談する。
それらの楽しみが、よく、わからない。

話題性のあるものに飛びつく、話題のためにコンテンツを摂取している、みたいな話をしてもいいのだが。これは、私の個人的な非オタクの定義であるが、「コミュニケーションを重視し、コンテンツを使ってコミュニケーションをする」人からすれば、コミュニケーションとして使いやすい=みんなが知っている、話題にしているコンテンツについて話がしたい、というのはなにも間違っていないと思う。例えば、クラスで話題になっていたから映画を見に行き、いまいちピンとこなかったが話を合わせるためにいろんな人の感想を読んでいる、みたいなタイプだろうか。あくまで一例だが。

ひとまずは、オタクに限った話をさせてもらいたい。ここでは、オタクを、「コミュニケーションよりコンテンツを重視する。コンテンツの摂取体験をより濃密なものにするためにコミュニケーションをする」ものだと定義する。いろいろな定義があるだろうが、いったん、私の定義で話をさせてほしい。上の例えで言うなら、映画を見に行くところまでは同じだが、そのあと映画がものすごく好きになったとして、その映画の解釈を周りの友達と話したい、みたいなタイプだろうか。思うに、地雷という概念もオタク特有なものと感じる。地雷原は避けるものだが、地雷原を頑張ってゾーニングしてでも、つまり、地雷を踏む(自分あるいは誰かが円滑にコミュニケーションが取れなくなる)可能性があっても、コンテンツについて語りたい、というオタクの心を表しているのではないか。地雷とかゾーニングとかそのあたりを見ると、少なくとも自分はそう思う。

前置きが長くなってしまったが、言いたいのは、オタクの中でも、同時性、即時性を好む人がいるということ、そして、私含め、同時性、即時性よりも魂をどれだけ煮詰めるかの話がしたい人もいるということ、である。

例えば、今流行りの映画について、いろいろ解釈や考察を読むことを好むタイプの人がいるとして、「いろんな人がわいわい話しているのを見て、自分も意見を言って、誰かの意見を見てああそれもあるか、みたいに納得する」みたいなタイプが、前者にあたる。会話が好き、つまり即時性や同時性を求め、今流行っているジャンルで、いろんな人から見た、たくさんの感想があるほうが嬉しい、タイプとも言える。個人的には、配信者さんの配信を見るのが好きなのもこのタイプかなと思っている。身も蓋もない言い方をすれば、質より量派、と言ってもいいのだが、少し意味としてずれそうなのであまりこの言い方は正しくない気がしている。チェンソーマンや金ローなどの考察をツイッターでいろいろ言っているような人はこのタイプのように見受けられる。自分がそうではないのでいまいち解像度が低いのだが。

一方で、今流行りの映画について、いろいろ解釈や考察を読むことを好むタイプの人がいるとして、「誰かが自分の解釈を煮詰めて作った二次創作を無限に摂取していたい」みたいなタイプが、後者にあたる。作品で語ってほしい、魂を煮詰めて作ったイラストや二次創作漫画や文章、資料に当たれるだけ当たって書き上げた考察文の方が嬉しい、タイプである。個人的には、配信者さんのことは見るには見るが、MVとかを好んで見るのもこのタイプかなと思っている。たくさんの感想を雑多に摂取するより、圧縮された経験というか、解釈と魂を煮詰めて作った作品で語ってほしい、とも言える。個人的には、ここには、たくさんの感想を雑多に摂取する上で透けて見えるパーソナリティを排除したい、という意図もあるのではないかと思う。文学研究で言うテキスト論とでも言えばいいのか、その感想を「誰が」言ったかに興味が持てず、いっそノイズに感じてしまったりする。少なくとも、私はそうだ、というだけの話だ。

ちなみに、二次創作を作るにあたって、作者の願望的な創作が反映されているはずで、原作との乖離部分には作者のパーソナルが宿っているとも言えるはずで、それはノイズではないのか、という疑問は当然出るだろうと思うので書いておこうと思う。

結論から言えば、あらゆる作品への解釈というものに、読み手によるバイアスがかかる。だからこそ、そのバイアスを極限まで煮詰めてくれ、と思うのだ。筆者が思うキャラクターの魅力と、あなたが思うキャラクターの魅力は違う。同じはずがない。同じであってたまるものか。誰か、その作品を摂取した人格が一つ挟まるだけで、もとの作品とは明確に異なるものになる。どれだけ原作を愛していたとしても、それはもはや原作とは違う、その人が摂取した作品、になるのだ。だからこそ、限界まで煮詰めてから出してほしいと思うのだ。そうでなければ、あなたの感想を読む必要がないではないか?文、絵、音、何でもいいが、煮詰めて作品にすることで、その人が接種した作品の魅力を凝縮したダイヤモンドができる。煮詰める過程で、その誰かのパーソナリティ、個人的なこと、というものは削ぎ落とされていくのだ。少なくとも、作品の魅力と関係ないものは削ぎ落とされていく。煮詰まって蒸発していく。だから、むしろ二次創作のほうが、私は気にならない。

長くなったが、流行りのものでないものを、今更ながらにハマって、数年前の同人誌を買い漁って悲鳴を上げていると、ひどく奇特なものを見る目で見られるのだが。
こんなわけで、即時性やら同時性なんてどうでもいいから、魂を煮詰めたものがほしい、と思う。そんな拗らせオタクもいるのだと知ってもらえれば幸い、
というより。
そんな同志に届けば、うだうだと書いた意味があるかなあ、なんて、ぼんやりと思っている。

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