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なぜ心理カウンセラーになったのか

これは #note#この仕事を選んだわけ というお題に答えてみようと思ったから書くのですが。

私は一人っ子として育ったのですが、それはそれは面倒見のいい父でした。ただし、「物質面」だけ。

久留米で一番仕事量こなす税理士として激務だったのですが、旅行にもしばしば連れて行ってくれましたし、こちらから求めてもいないうちにいろいろおもちゃや本を買ってきてくれる父でした。

中学校に入って、私が自発的にしてクラシック音楽に興味を持った時も、結構立派なオーディオセットをある日突如電気屋に連れて行って買ってくれましたし、レコード代もしばしば現金で渡してくれました。自転車に興味を持てばサイクリング車を買ってくれるという具合。

ただ、私はそこまで「先回り」していろいろしてくれるものだから、自分からだだをこねてものをねだったということは皆無でした。おもちゃ屋に行っても、欲しいものをはっきり欲しいと言えない。結局父が「これはどうだ?」と言ってくれるものを買ってもらってばかりでした。

私のその後の理解では、「甘えた」ことはないということになります。「甘んじて」いた、と言ったほうがいいですね。

小学校では、運動音痴で、きょうだいの間でもまれて育っていなかったので、結構いじめの対象とされました。教員養成大学の附属校でしたから、粗暴ないじめではなかったとは思いますが、名門、久留米大学医学部のお膝元、医者の子供がむやみと多かったから、恐らくそういう連中は家では厳しいしつけを受けていて、そのストレス発散の種にされたのだと思います。

本来は、私は才気煥発というタイプで、天真爛漫だったと思います。そういうのが逆に気に障ったのでしょうね。

私以外の全員が、いわゆる「お受験」のための英才教育型幼稚園出身で、その頃からの友だち同士が多かったですから、孤立していたとも言えます(私自身は、附属小に入るための「お受験」勉強などは特に親から求められていません)。

親も、「勉強しろ」と言ったことはなかったです。そこそこ成績は取れて、中の中という感じでしたでしょうか。

ところが、附属校ではありますから、実質的には中学ヘはエスカレーターだったのですが、中学から入ってくる人たちも多い。そういう人たちのほうが秀才が多いわけです。そこで、6年生になると、学校をあげて「受験勉強」させられるわけです。

業者テストも何回も受けさせられたわけですが、私はその2回めの時に、唐突に学年2番になれてしまいました。みんなはまぐれだと言いました。

次の回はまた馬群に沈むわけですが、ここで私は、2番の時がまぐれではないことを証明したいという気持ちに自分でなったのです。それから猛然と勉強をはじめました。

・・・で、実際に再び学年2番になれたわけです。しかし、そのことを親は特にほめてもくれませんでした。

中学に進んでも当初成績は良かったのですが、そのうちに何のために勉強しているのかわけがわからなくなりました。親は全然将来のためとかいいませんでしたからね。

自分で延々と長大な日記を書いて、「学習哲学」みたいなものを自分で考えることをしていました。

知識の実用性を重視すれば「実用主義」、将来の安定した地位を欲しい場合には「地位獲得主義」、努力すること自体に価値があるとするのを「努力主義」、純粋に知的好奇心にもとづくものを「本源主義」とか名付けました。

私はその答えを求めて、中学生のくせに、トルストイとか、ともかく小難かしい岩波文庫的な本を耽読するようになりました。そうして出会ったのが、すでに別の記事でも書いた、「幸福論」スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティでした。

ヒルティは本職は弁護士だった人ですが、古今東西の書物に通じたたいへんな碩学でしたから、聖書は当然として、世界史上の哲学者や文学者などの知識人のことが情け容赦なく出てくるわけです。私の教養はヒルティによって養われたといっていいでしょう。

ところが、そうやって勉強する目的を見失なってしまったので、全然勉強しなくなったのですね。成績は低迷するようになりました。夏休みの宿題は、自由研究以外は白紙提出。ただし、国語と社会科だけは何もしなくても学年でトップクラスでした。先生には「なぜお前は国語と社会だけできるんだ!」と怒られました。

ところが、どれだけ成績が下がろうと、親は何も叱っては来なかったんですよ。いよいよ私は人生に迷いました。

(そもそも、私は父親が生きている間、一度もほめてもらえた経験はありませんし、がんばれと言われたりしたこともありません。しかられたのも、火遊びをした時だけです。これは母も同じです)。

結局、多くの人が進学する、地域一の公立進学校には不合格。滑り止めの私立男子高校に入ります。不良もいるような学校。ぬるま湯でして、そこそこ勉強すれば学年トップクラスになれました。

それでもあいかわらず勉強することには葛藤が強く、英語と古典だけは頑張りましたが、あとはかなりいい加減でした(現代国語と世界史は放っていても全国模試トップクラス)。

まあ、これで大学受験は、私立文系3科目はそろったわけで、どこかにはなんとか受かるだろうという水準にはなりました。

国語の教科書に出てきた、矢内原伊作という大学教授(サルトルの権威)のエッセイに感動して、哲学科のみをめざすことにしました。

ただ、「このまま親元にいれば自分は駄目になる」という思いから、東京の大学ばかりを受けました。

そうやって、めでたく故郷脱出に成功するわけです。六大学ではありましたが、哲学科というのは偏差値的にレヴェルの高い方ではなかったので、大学での勉強はこれまた勉強はユルユルで、当時は必修だった体育以外はオールAでした。すべての講義皆勤で、私が教室に現れるのが遅いと、「この時間は休講ではないか」といううわさになってマジで掲示板まで確認に行く学生もいたくらいです。

ただ、哲学科というのは、カントとかの原典購読はやっても、「人生とは何か」について学ぶ場所ではないという感じでした。「生身の人間のニオイがしない」(結局私がゼミに選んだのは記号論理学)。

そうした中、一般教養の心理学を教える先生の講義がむやみとおもしろかったのです。本来は障害児臨床が専門の先生でしたが、行動主義的実験心理学からゲシュタルト心理学、そして精神分析からカウンセリングまで、当時ですからスライドから、映写機を使った教育映画まで動員、それはそれはおもしろい講義でした。

私はここで心理学に関心を持つわけです。その先生が学生有志に協力して「臨床心理自主ゼミ」というのをやっていて、私も途中から参加するようになりました。

フロイトやユングとかも自己流でかなり読みましたね。一番惹かれたのは、「自由からの逃走」で著名なエーリヒ・フロムで、邦訳書はほとんど読みました。

実は全然就職活動というものはせず、心理系の大学院に入ることだけをめざしました。

でも、当時の名の通った心理学専攻大学院の入試って、実験心理から社会心理、統計まで、英語の最新論文を辞書なしで読める水準のことはできないと入れない狭き門でした。臨床心理なんて、設問のごく一部なんですよ。

(指定校制度のできた現在は少し違うかもしれませんが、心理学科に入ったら、フロイトやユングについてたくさん学べると思ったら、大間違いですよ。実験や統計だらけで、まるで理系です)

2年間、聴講生などをしながら浪人しました。

その浪人1年目に、偶然本屋で、ジェンドリンの「フォーカシング」が目に止まります。

私は、「これこそ私が求めていたものだ」と思いました。こころをいろいろ専門的な「概念」としてこれくりまわして分析するのではなく、言葉にならない「感じ」(フェルトセンス)そのものが一番大事なんだ、という発想が非常に斬新に思えました。

自己流にフォーカシングをひとりでやってみたのですが、その当時感じていた、周囲が社会人であることへの劣等感や疎外感を随分癒やしてくれました。頭でっかちだった私が、映画とかへの感性もずいぶん開かれるようになっていきました。

そこでジェンドリンのフォーカシング技法の背景にある、体験過程理論の論文、「人格変化の一理論」所収の本(現在は絶版、再度以下の本に収録されています)を読んだら、これまた難なく理解できました(この論文、フォーカシングを学んだ多くの研究者やカウンセラーにとってもかなり難解な本だということがあとでわかりますが)。

ちなみに、この論文、ネットでも無料で全文読めます。

そして、前述の「フォーカシング」と、この論文の訳者である、当時立教大学の村瀬孝雄先生のもとで学ぶことに照準を縛りました。

ただ、当時の立教大学心理学科は、学部の受験でもすごい競争率のところでして、ましてや大学院です。

村瀬先生はすぐに私のフォーカシングについての特異な才能は認めてくれましたが、すでに書いたように、実験系の先生方を納得させる必要があったわけで、受験勉強は臨床心理学やカウンセリング以外のことばかりやりましたね。

こうして、挑戦3回目で立教大学院に入れました。村瀬先生はわたしを随分引き立ててくれました。

この時代に精神科病院臨床の研修も受けています。

ところが、村瀬先生は、私が博士前期課程を終える直前、唐突に国立「某大学」への転任が決まってしまいます。先生は私を博士後期課程まで行かせてくれる腹づもりでいたのですが、私は行き場を失いました。

そこで、私は、その大学の「大学院研究生」の採用資格を自分で調べます。すると、原則はその大学の博士前期課程終了を前提としていたのですが、付則のようにして「これらと同等の経歴を持つもの」とあるのを発見します。それを村瀬先生に伝えると、「うん、それなら君を連れて行けるな」。

こうして、私は高校時代からすれば予想もできないとんでもない大学・・・カウンセリングの世界でも佐治守男という神様が村瀬先生の前任者という無茶苦茶著名・・・の大学院の博士後期課程相当にもぐり込めます。

ところが、村瀬先生は私をフォーカシングの専門家としては認めてくれていましたが、「現場カウンセラー」向きとは全然考えてくれていませんでした。

私は現場カウンセラになりたい一心で、日本ではほとんど紹介されていなかった、ピオトロフスキという人のロールシャッハテストの本の全訳までやってしまって、大人数のメンバーがいた心理教育相談室のメンバーに配布するとかもしたのですが。

村瀬先生とは相当喧嘩しましたが、結局先生は折れて、私に大学学生相談の非常勤カウンセラーの職を斡旋してくれました。

その一方、フォーカシング個別指導のカウンセラーとしては、日本で指折りの大規模カウンセリングルームでも担当させていただくことになりました。

非常勤カウンセラーだけでは収入が低かったので、幾つかの大学の一般教養の心理学の非常勤講師もしましたが、その時、すでに述べた、哲学科学部生時代の一般教養の心理学の先生の講義スタイルが随分参考になりましたね。

この頃から、学会発表もかなりするようになり、日本中のフォーカシング研究・実践家とも交流を持つようになりました。

フォーカシング技法自体も、私なりのオリジナルなアレンジを試みるようになりました。

まだ臨床心理士は「経過処置」の時代でしたから、書類審査だけで資格を得ました。

その後、The International Focusing Instituteのフォーカシング教師の国際資格も、まだ全然日本から離れたことがないのに、村瀬先生の推薦で得ることができました(その後カナダの国際会議にも出ますが)。

当時はフォーカシングの名教師が続々来日しましたが、特にアン・ワイザー・コーネル女史とは、やり方が似ていると、意気投合してしまいました。私の現在のフォーカシング技法はアンさんの影響が色濃いものです。

私は、大人しくフォーカシングの世界に安住するタイプではなく、いろいろな心理療法分野の本を多く読み、応用してきた人間です。

このへんは、現代のエスプリの編著をさせていただく際に色濃く出ています。


認知行動療法を学ぶとなれば伊藤絵美先生、行動療法となれば山上敏子先生、精神分析となれば藤山直樹先生や松木邦裕先生、ゲシュタルトセラピーなら倉戸ヨシヤ先生、ブリーフサイコセラピーとなれば児島達美先生のセミナーじゃなくちゃ嫌だという路線できました。学ぶなら超一流の先生ということです。

その後、明治学院大学学生相談センターでは、横浜校舎のチーフ常勤カウンセラーをやらせていただいたのが、勤め人としての最後のキャリアで、その後は開業ですが、正直に言って、大学学生相談時代、そして大船での開業時代は、今から見るとかなり未熟なカウンセラーだったと思います(今でも発展途上だと思いますが)。

今でも、多くのクライエントさんと、数をこなす形でコンスタントに成果をあげるタイプとは思えず、今のあまり流行らないくらいがちょうどいいかとは思っていますが、本来は、そんなカウンセラー向きの性格だったかというと、たしかにそうではないと思います。

でも「向いている」と当初周囲に見られるかどうかは、結局どうでもよくて、結果が全てとは思っています。

相当に環境に恵まれ、運がよかった(ピンチがチャンスに化けてしまう)のもあると思いますが。自分の計画的な努力で、ものごとを実現できたことはそんなにないような。

このnoteで相当に偉そうなことばかり書いていますが、できるだけ自分の経験に基づき、自分の言葉で書こうと思っています(典拠は示さないことが多いですが、私が意識的、無意識的に影響を受けている先達の先生方は少なくないです。例えば相当な中井久夫先生・神田橋條治先生びいきであることは、著作を読んだ人にはまるわかりでしょう)。

これからもどうかよろしくお願いいいたします。

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