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「皆さん、手術の前には手を洗いましょう」の創始者、ゼンメルワイスの苦悩 -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論2

 前回からの続き。


さて、ナイチンゲールがクリミアで活躍した、19世紀中葉当時の外科医は不衛生で不潔そのものだった......と申し上げると驚かれるかもしれない。

当時の外科医はたいてい黒い服を着ていた。なぜなら、浴びた返り血の色が目立たないようにするためである。手術用のエプロンも着けることがあったが、それもまた黒い色をしていた。しかも、そのエプロンはずっと洗濯されておらず、血糊が無数にこびりついたままだった。

手術前に外科医は手すら洗わなかった。手術用具、例えばメスは、ポケットに入れて持ち歩かれていた。新たな患者に手術する前に洗われることもなかった。手術中、外科医は自分の服の袖口やすそで、メスをぬぐいながら手術を続けた。たいてい木製の手術台には、血糊がこびりついたままだった。

連続して手術がなされる場合でも、外科医は手をぬぐうことはあっても手を洗うことはないまま、そのままの手術台と、同じ手術用具で手術をした。

当時は、傷口は化膿するのは、傷口が治癒するために必要な、当然の過程であるとみなされていた。化膿しなければ治癒しないと考えられていたのである。

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1846年、ハンガリー出身のイグナーツ・フィリップ・ゼンメルワイスという医師が、ウィーン総合病院の第一産科の助手になった。当時、出産は基本的に自宅で行うものであり、病院で出産するのは「不義の子」など特殊な場合だった。

当時、出産は死を賭したものだった、今でも産褥熱という病気は存在する。しかし産褥熱そのもののために死に至ることはもはやほとんどないと言っていい。しかしかつては数パーセントの死亡率すら持っていたのである。

産褥熱に限らず、当時手術後に発熱して死に至る患者の遺体を解剖すると、共通の所見が見られた。手術した患部や傷口のみならず、肝臓も、腹膜も、リンパ腺も、腎臓も、肺も、脳膜も、みんな化膿や炎症を起こしているということである。

敗血症による多臓器不全であるが、原因がわからず、出産や手術につきものの、不可避なものとしか思われていなかったのである。

しかし、ゼンメルワイスは、勤務開始後この産褥熱による死亡率の統計に頭を抱えることになる。

ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。そのうちの、センメルワイスが勤める第1病棟の方は、10%の死亡率を持つのに、第2病棟は、1%しか死亡率がない。実は以前からずっとそうなのに、上司の指導教授はそのことに慢性の不感症になっていて、全く気を止めていないのである。

ゼンメルワイスは、上司の目を振り切り、同僚のマルクソフスキー、そして法医学教授のコレトスカと共にその原因についての探求を始める。

死体安置所にある死体の病理解剖をして、産褥熱の死の場合とそれ以外の死の場合に病理所見に違いがないかどうかも検討を重ねた。ひとつはっきりしていたのは、出産に時間がかかる女性の方が産褥熱になりやすく、死亡率が高いということだった。

ところがこうした熱心な調査研究をはじめるにつれて、むしろ第1病棟と第2病棟の死亡率は、12.1%対0.9%と、むしろ格差が開いていったのである。

ゼンメルワイスが、ほとんど神経衰弱になりかかっているのでないかと心配した、先述の協力者、コレトスカは彼に静養を薦め、やっとのことで説得してベニスに送り出した。

しかし、気が休まらないゼンメルワイスは、静養を3週間で切り上げて戻ってきてしまう。

そこで知らされたのは、最大の協力者、コレトスカが、急死したという事実だった。解剖実習の際に、未熟な研修生が、そばにいたコレトスカの腕にメスで擦過傷をつけてしまった。たいした傷でもないのでコレトスカが気にも留めなかったのだが、その晩から彼は高熱を発し、数日間苦しんだ挙げ句、死んでしまったと。

ゼンメルワイスはコレトスカの解剖報告書を見せてもらった。

「肝臓・腹膜・リンパ腺・腎臓・肺・脳膜.....化膿と炎症」

この瞬間、ゼンメルワイスに打ちのめされたような衝撃が走る。

それは、自分が山のように解剖してきた、産褥熱で死亡した女性たちの解剖所見と全くよく似ていたからである。

コレトスカと、産褥熱の女性たちの死亡の原因そのものが同じである...という直感。

ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。基本的には同じような構造を持った同規模の病棟が2つ回廊で結ばれて建っていたのであるが、ひとつだけシステム的な違いがあった。

センメルワイスが勤務する第一病棟は、研究・研修目的も兼ね、病理解剖を行う死体安置所も持っていて、男性の医師・研修医の立ち会いによってしか分娩はなされなかった。

これに対して、第2病棟は、女性の助産婦によってしか分娩はなされておらず、この点、相互に例外は全くなかったのである。  

第一病棟の医師は、さっきまで病理解剖をしていた、その同じ服装と手のままで、妊婦の分娩に立ち会っていたのである!!

ゼンメルワイスが原因究明のために産褥熱の女性の病理解剖に力を入れば入れるほど、むしろ第1病棟の産褥熱の死亡率が増えていきすらしたのは.......

少なくとも、産褥熱の女性の遺体の身体の内部が出していた何らかの毒を出す物質に接触した手で、出産する女性の身体に触れるということをしていたためではないか?

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翌日、彼は指導教授には無断で、張り紙を出す。

「今日以降、死体安置所から出た者はすべて、医師、学生問わず、産科の病室に入る前に、入り口に置かれている塩素水で十分に手を洗うこと。この指令は何人にも適用される。例外は許されない」

だが、指導教授も医学生たちも、「めんどうくさい」と冷笑していた。しかし彼はもはや冷酷な暴君となって監視した。

石鹸、爪ブラシ、さらし粉などが次々登場する。

罪意識の虜となった彼は、「人のいい、同僚にも患者にやさしい男」から一転して、ヒステリックな孤高の独裁者となるのである。

数ヶ月後、第1病棟の死亡率は、12.34%から3.04%へと激減する。

しかし、「院内感染」問題と、病院の衛生管理の先駆者、ゼンメルワイスは、それからも茨の道を歩むのである。


(未完)

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