ふたり~姉妹を巡る自伝のようなもの①
珍しく二日連続で湯船に浸かって考えた
あ、もしかして私の問題も最終的には姉に対してのコンプを拗らしてるのか
姉と私は6歳離れてて、常に姉を追いかける私と
私の事や家族の事は基本お構いましに突っ走る姉
姉は私と違って割と問題児?!
姉の為に家族はトラブルに巻き込まれる?!
・高校での生活指導を受ける姉
・姉の進路相談のトラブルに巻き添えを食らう妹
・父と母の大喧嘩を側で見ていた私の心
・反面教師でKYを読み、地味で優等生の私
・父の最期と今でも姉(一家)に振り回される私と実家
・父の死後判明した真実と姉への葛藤
高校での生活指導を受ける姉
高校生の時にも姉は問題を起こして、出席停止を2度くらってた
今思うと四国の片隅で
(そんな事で生徒指導??)w
みたいな、それこそ母と姉がうまくやれば回避できた問題
不純異性行為と遠足に行かずに近藤真彦のコンサートに行った事がバレた為の失笑
不純異性行為は、実は裸の現場見つかった訳でなく、帰宅したら当時の彼氏と姉が寒いから一緒の布団に入ってただけよ、と姉は私に語ったが、
、、、小学生の私にそんな事の真実がどうかなんて突っ込む知識も無く💦
(だって当時の姉の部屋にあった←父がお客様から貰ってきたものとこれも姉が後に主張したが、知らんがな 雑誌『SEVENTEEN』のコンドーさんに?????意味がわからなかった小6だから💦 )
当時姉が大好きだった近藤真彦のコンサートが高松市民館の前から◯番目のチケットが取れて、どうしても行きたくて、偽装工作した
なら、親に素直に言えば、これこそみんなで協力して偽装工作すりゃ良かった 悪だくみ(笑) でもいいじゃん、一日位さぼったってさ
一緒に行った友達の保護者は、学校から電話があった時に「カッちゃん、今トイレでウンコしてて電話に出れません」
とこれまたもう少し上手い嘘無かったの?😆
な下手くそか!だったので、姉と2人自宅謹慎
うちの母は頭が硬いから
学校サボってコンサート行くなんて‼️
と確かに言いがちだけど、それでも真実を母と父に話してれば、回避できたのに
馬鹿極まりない、と当時から傍目で見て思ってた(と言う私は小学高学年)
姉の進路相談のトラブルに巻き添えを食らう妹
高3の時には姉は高松第一高校の美術専門コースで自然に美大受験をする道になっていて
が、本人曰く
「私は青学の英文科行きたかったのに」
と進路面談で揉めて学校から怒って帰宅してたのだが、偶々姉宛に来た担任の先生からの電話に
私が受話器を取ったら
いきなり怒られた…
小6に向かって先生はしきりに怒っていて…
流石に途中で
「すみません、私は妹のまさこですが…」
「!?すみません。良く確かめもせずに、お姉さんと声がそっくりだったので間違えました。ごめんなさい。ところでお姉さんは居ますか?変わってもらってもいいですか」「…はい」
と言う、ネタか?!みたいな事もあり
…本当最初に確認して欲しかったし、小6と高3間違える??いくら私がしっかり応対してるからってさ!!声も姉妹だから、似てても仕方ないよね?
私は( ゚д゚)だったぞ。小6だぜ?大体 (´・ω・`)知らんがな
妙に達観してた小学生だったな……(-。-)y-゜゜゜
父と母の大喧嘩を側で見ていた私の心
昔から父と母の喧嘩の原因の中心は姉に関する事
いつか怒って私の隣りの姉の部屋で夫婦で大喧嘩をしてて
私は子どもだから、父と母が喧嘩をして酷い事にならないか、心から心配してて喧嘩の時はいつもそうだった 姉は知らんぷり(^^;自分さえよければいい姉(これは今も一緒だ)
体育座りで近くでじっと喧嘩を見守ってる
そんな子ども
一度不幸な事に、父が偶々暴力紛い(と言っても母の言葉の暴力の酷さたるや…これはずっとずっと問題。私にも被害はあったし、もしかして今もかも。悪意がないのだけどね、良かれと思って、が口癖。たまんないけどね)で頭から運悪く私が見てる目の前で流血騒ぎになり、
父は予想外の流血で、オロオロするし、母は反対に脱脂綿あるか?と冷静だし 父は脱脂綿を買いに走ったし え?どうなるの?この先納まるの?私はどうしらいいの?待てばいいの?泣いたらだめだよね??
小6にとってその目の前で繰り広げられてる光景は強烈で、今でも薄っすら記憶にある位
軽くトラウマレベルの出来事を姉を媒介にして日々繰り広げられ続け…
反面教師でKYを読み、地味で優等生の私
その反動で私は全く表面上は問題の無い子どもの私
平凡そのもの
平凡がゆえにいつでもその他大勢なんだ、私は
姉の方がきっと両親も可愛いのか…と。
(容姿は姉は国生さゆりさんで、私は冨田靖子さん似。姉の方が華やか。聖子ちゃんカットばりにくるくるドライヤーで高校生でセットしてた。私は剛毛なので、そのままストレートをほぼ貫いてる
『南京の基督』の富田靖子さんはいい!ので寧ろ褒め言葉かな?と今では思う。実際オジ様には私の受けは良かった😅)
いつでも母の機嫌伺って、無邪気な振りして人一倍気を使い、夕飯でもかって気ままな姉と、寡黙な父をはために
「お母さん、今日のこのヒラメのムニエル美味しいね!」とか必死で食卓を盛り上げようと、ずっとしてた。
それでも話題の中心は常に「姉」
それは長子あるあるの問題なのだと子育てしてる今なら分かる。
が、当時は納得いかなかったけど
「他人は他人 うちはうち」
「お金が無い」「お姉ちゃんだから、○○、妹だから、お古で我慢」「いいものしか買わない(から洋服の数も少ない、量販店での服は好きでは母は無い。ある意味そこは感謝してる)」
「妹だから、一番家族で下だから従え」
の姉や我が家への嘆きも含めて、小さな私の心はパンパンで、勝手に潰れそうだった
父の最期と今でも姉(一家)に振り回される私と実家
姉に振り回される人生は、実は今でも多少ある。
姉は義兄が癌で他界を丁度父の死の1年後に亡くなっていて、確かに実家どころではなかったが、それでも父が最期に顔を見たかったのは、実子の姉と私だったろうし(姉は何故か自分が来ると亡くなるという「ジンクス」を気にして,最期に会いに来てと言う私の言葉を受け入れなかった。替わりに甥が来て、こちらのお世話も結果的に丸投げだったので、大変でうちの旦那が全て葬儀の服装も一式見繕って靴まで貸したし、何故か赤いジャージで来たのでユニクロも一緒に買いに行ってくれた)父の闘病に母と付き添って、葬儀も上げた、死亡診断書に震えてサイン出来ない母に替わってサインしたのは私だ。だって支えるしか仕方がないでしょ?
でもことも有ろうか、葬儀中にスマホで兄に実況中継をしていた姉に呆れた。なんだこのバカは?と。
いろんな気持ちが重なって、いろんな蓄積が重なり過ぎて、私の想いは強すぎる位強くないと乗り切る事ができなかった。
それでも父の最期の顔とかいつも声とか、雰囲気とか、忘れない。
忘れれる訳がない。
誤嚥性肺炎で食べる事が出来なかった父の声
「ああ、何か食べたい。コーヒーでも飲みたい」って心からでた叫びを笑顔で聞き流す事しかできなかったし、臨終の際でコンビニで買った缶コーヒーとスポーツ新聞を私は病院への道すがら買って、看護師さんに
「コーヒーを飲ませてくれませんか」
とお願いしたら、快く引き受けて静かに見送った。
姉はいつも勝手だ。
私と母を振り回す。なので上京してきて、必ず母と揉めだす。それも2週間近くも滞在するが、2日目から始まり、私に助けの電話が入る。
私が脳出血で倒れて病院に居る時でさえ、そうだった。
私は死への恐怖を抱えているのに、双方お構いなし、、、
旦那も何だか文句を勝手に言ってる
真剣に離婚を病院のベッドの上で考えたし、母の今後も考えたし、義母の事も考えた(義父が亡くなると直前に足が悪いのに一人で主人の実家に一人いたから)
もう限界だった
だからこの年末年始は姉が四国から上京してくるが、仕事を理由に全く会わなかったし(実際それどころじゃ無くて、紅白観ながら仕事ずっとしていた。本当辛かったあのセミナー動画の文字起こし検品作業。ほぼ私がやったんだよね…耳腐った👂)
私は相手の感情の発露が怖くて、黙り込む子どもだったし、大人になってからもあらゆることでもそうだ。
結論、父の死後判明した真実と姉への葛藤
アダルトチルドレンだと思うし、エディスコンプレックスだと思う。この2つを拗らせてる。
他にも酷い話がある。10年超えで、姉からの父への脅迫めいた資金援助の申し出のメール、、、
人の良い父が断れないように書かれたメールは、父の死後携帯メールを読み知った…。
金額も父はパソコンと通帳を残していた
額は合わせて1000万円超える
私は父の苦悩の真の意味を死後初めて知ったのだ。
だから私は姉を許す事はないと思う。
それでも表面上は母が亡き者になるまでは、いや多分一生付き合っていくと思う。
波風立てない生き方をずっと自己犠牲の元やっていた私なので。
私のトラウマは、母ではなく(全部無いとは言わない)姉だったのだ、と。
姉一家そのものだ。
それを、今日湯船に浸かって、解を閃き
声を上げて泣いた
私も彼のエッセイを読んで私の事を追体験してたのだと自覚した
そう思うと、心は震えて、その後もおいおい泣いた。
息子も大学で居なくて、旦那は寝室でリモートワークで、ダイニングのテーブルで在宅ワークをやってる私は1人で思いっきり泣いたのだ。
今朝の出来事はこうだった。
その後はアップルミュージックを聴いて気持ちを上げてみたり、疲れたと布団で横になってたり
とにかく、ゆったりと休みたかったのだ。
Twitterで愚痴りたかった。
私にとってのTwitterはそんな清濁入り混じった私そのものだったから。
長くなってしまった💦
とりあえずこんな感じの午前中でした。
続く(のか?)