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とうてい“普通”になれないのに”天才”にもなれないから、わたしは就活から逃げた

「チカゼはどんなとこ受けるの? やっぱアパレルとか?」
大学3年の半ばごろ、当たり前のように振られるその質問に、いつも口籠っていた。一片の迷いもなく企業や役所に就職しようと動き出した友人たちを、罪悪感と嫉妬と羨望の眼差しで眺めていたのをよく覚えている。

その日も昼休みの食堂で同じ専攻の友人にそうやって問いかけられ、わたしは大袈裟なくらいぎくりと肩を揺らした。箸を割る手に変な力が入って、そのふたつは歪なかたちに独立した。その歪さは、さながらわたしのようだった。

「え〜、なんでアパレル?」とっさに口から出たのは、どうでもいい突っ込みだった。
「理由はないけど、なんか『ぽい』じゃん。服すきでしょ?」と友人は言った。
わたしはそれに曖昧に笑って、不恰好な箸で温玉うどんを啜った。話はすぐに他のだれかの進路へと移り変わっていく。わかっている、わたしの答えなど彼らは真剣に求めているわけではない。でもそのくらい今のみんなにとって自然な話題なのだ、就活というものは。

SPIを受けなきゃとか、リクナビがどうとか、公務員試験だとか、そんな言葉たちがわたしの脳を上滑りしていく。目の前で交わされているはずのその会話は、なぜだか酷く遠い異国の言語のように聞こえた。気怠げに、あるいは熱心に自らの将来について語る彼ら自身も、なんだか急激に遠ざかっていくようだった。

もしわたしが「日本人」「女の子」だったら、わたしはきっと迷わず就職していただろう。今でもそう思う。わたしは、“わたし”について親しくない人に説明するのが、死ぬほどに怖い。理解される保証のない相手に、いったいどんな言葉を尽くせばいいのかわからないのだ。就活とはそういう場だろう。

謂れなき侮蔑の言葉は、数え切れないくらい浴びてきた。自分がとうてい“普通”になれないことくらい、思い知っている。いまさら仲間に入れてもらおうだなんて思っていない。身の程くらい弁えてるよ。わたしがいつだって異物で、除け者であることも。ちゃんとわかってる。

だから指導教官の「大学院に進学してみない?」という誘いにも、即座に頷いた。けっしてわたしを受け入れてくれなどしない「社会」に出ていくまでの時間を、できるかぎり引き延ばしたかった。どうやって食い扶持を稼いで生きていくか、まだ考えたくなかったのだ。

親に文句を言いながら学費は余分に払わせるんだね、甘えてるんじゃないの、という嫌味を投げつけられることもあった。反論したい気持ちもあったけど、でも一方でその通りだと思う自分もいた。

はたちを過ぎたころにはもう、父親の暴力も暴言も過干渉もだいぶ収まっていた。大学生になってバイト代でしょっちゅうほいほいと海外へ行くわたしを見て、下手に刺激すると今度は外国に飛びかねないと慄いていたのだと思う。浪人が決まったときに京都まで家出をしたのが思いのほか牽制になったようだ。世間体を何より気にする父にとって、それだけはなんとしても避けたい事態だろうから。

そういう父の態度にほくそ笑んでいたから、まだ実家に寄生して金を搾り取ってやろうという復讐心があったのも本当のことだ。殴られる危険性がないのなら、急いで家を出る必要もない。そのときのわたしにとって何より怖いのは、もはや父ではなく「社会」だった。

見知らぬ人にわたしについて説明しなければならないとき、わたしは言葉を詰まらせてしまう。喉がひゅうっと鳴って、酸素をうまく吸えなくなるのだ。背中に脂汗をかきながら、焦燥の波に呑まれていく。その波間に相手の呆れ顔が見えた途端、あっさりとわたしは溺れる。

それなのにわたしは、“天才”にもなれない。わたしにこびりつく人種や国籍やセクシュアリティはわたしを“普通”でいられなくさせるのに、なにがしかのとくべつな才覚や非凡な才能も持ち合わせて生まれることはできなかった。あのころのわたしは、本気でどうやって生きていったらいいかわからなくて、でもそのことについて考えるのも怖くて、思考そのものを放棄していた。

わたしがただ“わたし”としてフラットに扱われる世界など、あるはずがない。だからあのとき、就活から逃げたのだ。これ以上“普通”でないことを突きつけられるのも、“天才”になれないことを認めるのもごめんだった。蔑みの視線を受けるのも、それでも理解してもらおうと媚びへつらって惨めになるのも、もうたくさんだった。

もういいですけっこうです、わからなくていいので話しかけないでください。関わってこないでください。そんなやさぐれた気持ちを、甘えていると断じた同級生にも向けていた。あなたはいいですよね、当たり前に「社会」に理解してもらえると思っているのだから。受け入れてもらえないかもしれないなどと想像したことすらないのだろうから。

そうして、結局ほとんどまともに「社会人」をやることなく、28歳まで生きてきた。でも今は、そうするしかなかったのだと不思議に納得できている自分がいる。諦めに近い、およそ前向きとはいえない感情かもしれないけれど、“普通”にも”天才”にもなれなかったからこそこうしてものを書く仕事をしようと思えたことはたしかなのだ。

「社会」を恨んでいないかと問われれば、はい恨んでいませんなどと答えることはできない。やりきれなさと悔しさはこの胸にしこりとして残っている。だけど、消去法的にフリーランスとして働いている今のこの状況を、不幸だとは思わない。これが折り合いというものなのだろうか。ただひとつ確信を持っていえるのは、文章を書いて金を稼ぐことのできている今の、“普通”でも“天才”でもない自分のことを、わたしはちょっぴりすきだということだけだ。

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