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ヒース・レジャーの屍を越えて

 北浦和駅の改札を出てすぐに、ぼくはiPhoneでLINEを開いた。七月の夕方の空気は肌を容赦なく焦がすようで、その熱はぼくにキャンプ・ファイヤーの炎のすぐそばを思い起こさせる。キャンプ・ファイヤーなんてものを最後にしたのは、いったいいつだったろうか。二十九歳のぼくにとって、それははっきりと思い出せないほどに遠い記憶になっていた。

“ついた。どこ?” 親指を忙しく動かしながら、先に到着しているはずの美貴たちの姿を探す。しかし既読がつくよりも早く大声で名前を呼ばれ、ぼくはそちらに顔を向けた。手を振りながらこちらに近づいてくる青いワンピースと銀髪のスキニーを確認すると、ぼくはiPhoneをショートパンツの尻ポケットにしまった。

「今日のゆんちゃん、めっちゃ派手だ」とヒロがぼくのオレンジ色のTシャツを引っ張る。そういう彼は何度もブリーチを重ねたシルバーのツーブロックに軟骨ピアスをいくつも開けていて、断然ぼくより派手だ。
「夏だから目立たなきゃいけないと思って」とぼくは肩をすくめて見せる。
「なにその理屈、ゆんちゃんってやっぱりばかよね」そう笑う美貴の、セミロングの髪が揺れる。つばの広い麦わら帽子の下をそっと盗み見ると、いつも通りの笑顔だったので、ぼくはこっそりと胸を撫で下ろした。

 美貴からの「離婚が成立した」という旨のメッセージが三人のグループラインに入ったのは、ぼくと夫がちょうどセックスを終えたすぐあと、深夜二時を過ぎたくらいだった。思わず声を上げそうになって口元を抑えるが、隣の夫は裸のまますでに寝息を立てていた。夫は射精を終えると、いつもすぐさまどろりと睡魔に飲まれてしまう。

“まじか、ついにか” 裸のまま頭までタオルケットに潜り込み、夫に背を向けてフリック入力でそれだけ打つ。冷房できんと冷えた空気と、タオル地に擦れる素肌が心地良い。消し飛んだ眠気と裏腹な倦怠感の中でそのあと続けるべき言葉を探すうちに、再びぽこんとメッセージが表示された。
“そんじゃ明日、お祝い会しようぜ”というヒロのその短い返事を見て、思わずひとり笑みをこぼす。ぼくは彼のこういうところをとても好いていた。

 ぼくが三年前広告代理店を退職したときも、ヒロはすぐさま“お祝い会しようぜ”と提案してきた。社会からとうとう逸脱してしまった自分の未来に絶望し、一週間以上布団の中で呼吸をするだけの日々を送っていたそのときのぼくは、なぜぼくの退職が祝うべきことなのかまったくわからなくて面食らった。

“なんで退職なのにお祝いなの”とぼくが訊くと、“悪縁が切れて、生き延びたからだ”とヒロは答えた。“劣悪な環境に身を置き続けたり、ダメになってしまった相手と関係をずるずる持ち続けると、いつか自分で生命を絶つことを選んじゃうだろ。そうせずに生きることを選んだんだから、お祝いするのは当たり前だ”という彼の持論に、ぼくは馬鹿正直に“なるほど”と納得してしまったのだけれど、美貴は“めちゃくちゃね”と笑った。

 そしてそのLINEのやりとりをした翌日、ぼくたちは今日と同じタイ料理屋でお祝い会を決行したのだ。生き延びたことを祝われたぼくは、本当にそのあとフリーランスのライターに転身して、今もまだ生きている。ヒロは昔からそういう、理屈を無視したエネルギーのようなものを常にその身の中に湛えていた。

 学生時代に三人でよく通ったそこのタイ料理屋は、駅から十五分くらい歩く。雑居ビルの四階、きんきんに冷えた二〇畳ほどの狭い店に入ったその瞬間、身体中の毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出した。

 いちばん奥のいつものテーブル、いつも通りヒロとぼくが並んで座り、美貴がぼくの目の前に腰を下ろす。ぼくと美貴は生ビールを、酒を一滴も受け付けないヒロはコカ・コーラを頼む。十七時の店内にはぼくたち以外客はおらず、大通りに面した壁のガラス窓から入る太陽は真昼のように力強い。

「日が高いうちから飲むビールは夏の正義だ」とぼくが言う。
 メニューから顔を上げることなく「間違いない、そしてコカ・コーラも」と同意したヒロは、そのまま「あ、ていうか俺もさ、こないだ彼氏と別れた」と続けた。
「うえっ、まじかよ。同棲して二年だっけ」ぼくはボディバッグを漁り、煙草とライターを取り出して火を付ける。そしてヒロの反対側に煙を吐き出した。

「あれよね、シワだらけの伸びまくったカーディガンをずっと着てる男」と目の前に座る美貴が言う。
「なんつうか、最初はそういうヤツのだらしなさも愛してたんだよ、俺は。かさかさのまんま放置されたヤツの革靴を磨くのもすきだったはずなのに、『ほっといてもどうせ俺がやるって思われてんだろな』って気がついた瞬間、もうダメんなっちゃった」
 ひっつめ髪の店員が、二つのビールジョッキと黒い炭酸飲料のグラスとお通しの空芯菜の炒め物を運んできた。

「俺の話はとりあえず置いといて、乾杯しよ乾杯。美貴、離婚成立おめでとう」
「そうだそうだ、おめでと」
「ありがとうー!」
 テーブルの真ん中で、ぼくたちは各々の夏の正義をがちんと合わせる。半分くらい一気にそれを飲み干すと、美貴は手の甲で無造作に泡を拭った。
「でも、その愛していたはずのポイントが、あるとき急に憎くなってしまう瞬間、私にもあったかも」

「旦那? あ、もう元旦那か」とぼくは訊きながら箸を二膳、二人に手渡す。
「そうそう、私の意見をいつだって最優先してくれるところが好きで、だから結婚したはずなのに、いつしかその穏やかさや優しさが、彼の芯のなさの証拠にしか見えなくなっちゃった」
「芯のなさ」ヒロが言葉を繰り返す。
「彼、だれの批判も非難もしないの。同僚や上司の愚痴すら、私、聞いたことがないのよ。彼のそういうところが誠実で愛おしかったはずなのに、ある瞬間からそれが彼自身の奥行きのなさだと気づいてしまったの」

 ぼくは短くなった煙草を灰皿で消し潰し、新しい一本を取り出す。ヒロがコカ・コーラをストローで啜る音が、なんだか一枚膜を隔てた違う世界のもののように響いた気がした。
「子供を作るタイミングは君の好きなときでいいよ、仕事は続けてもいいし辞めてもいいよ、今日の夕飯は君の好きなものでいいよ、って、それを三年聞き続けていたら、いったいこの人の意思はどこにあるんだろうって思っちゃったのよね」

「わかる気がする」とぼくは頷き、残りのビールを飲み干した。「でも美貴んとこは前から聞いてたけど、ぼくはヒロが別れてたことにびっくりした。先月会ったときはまだラブラブだったじゃん」
「不倫とか浮気とか借金とか、決定的な何かがなくても破綻するときゃ破綻すんだよ」ヒロはそう言うと、すいませーんと手を挙げて店員を呼び豆もやしのパクチー和えとピータン、それからよだれ鶏、そしてぼくと美貴のビールを注文する。「でもさすがに、ヤツが出てった後は堪えたよ。死んだね、精神が」

「泣いた?」とぼくは煙草の煙を吐き出す。
「泣いた泣いた。次の日有給取ってさ、でもこのまま家に閉じこもってたら自殺する! って思って、登山しに行った。高尾山だけど」
「高尾山なんて、ずいぶんお手軽な登山ね」と美貴が笑う。
「高尾山を舐めんなよ、あれだって立派な山だぜ」
「健全な失恋の消化の仕方であることは間違いないよ」とぼくは言う。「生きることへの意欲を感じる」

 時刻はまもなく十八時を過ぎようとしていた。焼き尽くすような太陽は、いつのまにか威勢が弱くなっている。話に夢中で気が付かなかったけれど、他の3つのテーブルもすでに客で埋まっていた。

 一昨年美貴から受けた結婚報告は、ぼくやヒロにとってはまさに青天の霹靂だった。

 大学卒業後すぐに大手出版社の編集部で働き始めた美貴は、フリーランスのぼくや街の小さなスタジオでカメラマンをしているヒロとは違って、文字通り身を粉にして働いている。労働基準監督署の職員の目ん玉が飛び出してそのままごろりと落ちかねないほどの違法な残業に文句を垂れたり、ときどき泣きながらも、それでも自分が担当した書籍が世に出るのが生きがいだと言い切る彼女は、恋愛にはあまり興味がないようだった。

 寝るだけの男はちらちらといたようだが、だれかと親密になるのを極端に嫌う性質の美貴にとって、恋人という存在を作ることは怖かったのだと思う。もちろんこれは、ぼくとヒロの憶測に過ぎないけれど。

 美貴の夫は六歳年上で、会社の上司だった。なにがどうなっていつのまに付き合って結婚するに至ったんだ、と当時ぼくとヒロは幾度か問い詰めたのだけれど、美貴はそれに一度として真正面から答えることはなかった。ただひとつ、結婚した理由だけは「自分を自由でいさせてくれる人だから」だと教えてくれた。

 だから正直半年ほど前に美貴から夫との離婚を考えていると聞かされたときも、ぼくもヒロもそれほど驚きはしなかった。心のどこかでそうなるんじゃないかと思っていたし、なによりぼくはほんの少しだけ、安堵してしまった。自分も結婚しているくせに、美貴が結婚することで生じたなにがしかの変化が、どうにも受け入れ難かったのだ。単純に美貴の夫に美貴を盗られた気がした、というのももちろんある。

「てか、ゆんちゃんは? 順調っぽいけど。首んとこ、キスマ付いてる」ヒロがぼくの首筋を指さす。
「順調といえば順調。少なくともセックスに関しては」と、ぼくは言いながら新しい煙草に火をつける。
「あなた、キスマーク隠す気ないんでしょう」と美貴が呆れたようにため息をつく。
「ただ、まあ戸惑ってはいる」とぼくは美貴を無視して続ける。「ぼくがどんどん“女の子”じゃなくなってくから」
「ああ〜」途端にヒロが頭を抱えて呻いた。「やっぱそのへん、まだ引っかかってんのな、旦那さん的に」

「旦那さんと出会ったのって、大学時代よね。そのときってゆんちゃん、まだ“女の子”だったし」
「髪も長かったし、スカートも履いてたしね。それで、“女の子”を好きになったはずなのに、ってこないだついに言われて大喧嘩になった」
「まじでかあ」とヒロが大袈裟に天を仰ぐ。「結婚前に言ってたんでしょ、そのこと」

「理性と感情は別なんだよ。そのことで彼を責める気にはなれない」とぼくは言った。言いながら、射精を終えるとすぐに眠ってしまう夫の顔と、胸の底に溜まったどろりとしたなにかが浮かび上がりそうになり、なんとかそこから目を背ける。「ぼくは女として生まれたけど、気持ちは男でも女でもなくて、それは最初からほんとに変わっていない。焦ってふつうになろうと、“女の子”になろうと努力した時期に、たまたま彼と出会っちゃったってだけなんだ」

 去年結婚したぼくと夫は、そのことについては幾度も話し合いを重ねた。婚姻届を出す前も、出した後も。ぼくの心が“女の子”ではないことを、ぼくは時間をかけて噛み砕いて説明したし、夫もそれを飲み込もうと努力し続けた。それでもやはり、すべてを嚥下し切れてはいない。スカートを捨て、髪を短く切り、「ぼく」として生き始めたぼくのことを、彼はどう捉えていいのかわからないのだろう。彼の身の内にだって、大きな混乱が渦巻いている。ぼくの心のことは、もはやぼくだけの問題ではなくなっていた。理不尽なことに。

「“女の子”のゆんちゃんに恋をしたもんだから、旦那さんもわけわかんなくなっちゃってんだろな。タイミングが最悪だ」とヒロが言う。
「愛してはいるんでしょう、ゆんちゃんも、旦那さんも」ピータンをもごもごと咀嚼しながら、美貴が問う。「だってそうじゃなきゃ、きっと迷わないもの」

「それがわからなくなった」とぼくは言う。「前のぼくだったら、もっと動揺してたと思うんだ。『もうダメだって瞬間が来るかもしれない』っていう事実そのものにきっと耐えられなくて泣いちゃってたけど、今回はなんていうか、そのときになったらそのときだなって納得しちゃったんだよね」
「うわあ、なにそれ切ない」とヒロが眉根にシワを寄せる。「“変わった”んじゃなくって、“戻った”だけなのになあ、ゆんちゃんは」
「でも旦那さんから見たら、“変わった”のよ。もちろんだれのせいでも、だれが悪いわけでもないけれど」

「夫のことはとても好きだ」とぼくは言う。「それは変わってないんだよ。出会ったときから、今も、変わらず好きだよ。でも、だからこそ彼が本来は“女性”を好きであることとか、子供を望むこととか、それに応えらえない自分がときどき堪らなく嫌になるんだ。それでもいまさらぼくは、“女性”として生きることなんてできない。このままぼくと結婚し続けることが、彼にとっていいことなのかどうなのか──」
「自信がない?」とヒロが言葉の続きを引き受ける。

 ぼくは頷く。「だれかと生きていくのって、なんでこんなにむずかしいんだろ」
「こんなにむずかしいのに、時間だけはちゃっちゃか流れるよな。だってあれだぜ、俺たちもうすでにヒース・レジャーの年齢を越えてんのよ」
「ヒース・レジャーって何歳で死んだの?」と美貴が二杯目のビールを飲み干す。
「二十八歳。だから俺たちはすでに、ヒース・レジャーの屍を越えて生きているということになる」

「なにそれ、なんかかっこいい」と言いながらぼくはよだれ鶏にかぶり付く。
「私たち、ヒースみたいになにかを成し遂げてはいないけどね」
「成し遂げていようが成し遂げていまいが、ぼくたちの青春が確実に終わりかけていることに変わりはない」
「二〇代最後の夏かあ、俺は現実を受け入れたくないよ」とヒロが嘆き、ぼくと美貴は噴き出した。

 ほろ酔い気分のまま店を出たぼくたち三人は、ドトールに寄ってアイスコーヒーをテイクアウトし、それを飲みながらだらだらと駅までの道を歩く。あんなに激しく素肌を照り続けた太陽は、すっかり夜闇に沈んで大人しくなっていた。

「いつまでもこのまんまでいたいなあ、俺」一滴もアルコールを摂取していないはずのヒロは、ふらふらと千鳥足で歩きながらふとそう呟いた。「俺たち、なんだかんだ大学卒業してからも、こうして月一で会ってんじゃん? それぞれ環境が変わったり、変わんなかったりしながらもさ」
「卒業から八年経ってるっていうのにね」と美貴が言う。「こんなにだれかと長く付き合いを続けるなんて、思ってなかったわ。そのあいだに自分が結婚して、離婚するってことも」

「そしてぼくも、もしかしたら離婚するかもしれないし、しないかもしれない」
「そうなったらまたお祝い会やろうぜ」とヒロが言う。「その前に俺も結婚してえな。生きてるうちに同性婚が認められてくれねえと、今度は高尾山に登っても山頂で自殺しちまうよ」
「生きてるうちっていうか、30代のうちに認められてほしいな。もし夫と本当に離婚したあと、女性と付き合うことになって、結婚したいってなったときに困る」
「恋人ができる前提で話すゆんちゃんの自信が、私は羨ましい」
「あいにくモテなくはないから」とぼくは肩をすくめる。

 北浦和駅の西口の階段を登り、構内へ入る。終電近い駅の中はしんと静まりかえっていて、まるでぼくたちだけが世界の片隅に取り残されてしまったみたいだ。
「まあ、生きてるうちは生きようぜ。死んじまったらそんときはそんときだよ」
「それもそうね」
「できるだけ生きてたいけどね」

 都心に夫と住むぼくと大宮で一人暮らしを始めた美貴は電車の方向が逆で、ヒロは学生時代のアパートにそのまま今も住み続けているから、ぼくたち三人はいつも北浦和駅の改札前で解散する。
 じゃあまた来月、と言い合って、ぼくたちは帰路に着く。一歩一歩踏み出すたび、各々の現実に戻っていく。寂寥感に溺れそうになりながらも、振り返ることはしない。ヒース・レジャーの屍を越えて、ぼくたちは明日も生きていく。

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