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「復讐は何も生まない」はウソだった

Facebookでその名前を見つけた途端、胃の底からぶわりと湧き上がったのは、憎悪だったのか怒りだったのか恐怖だったのか、あるいはそのすべてか。いずれにせよ、検索をかけてしまった自分を恨んだ。

この季節は嫌いだ。毎年毎年、決まってフラッシュバックを起こす。受験の時期の父の怒声、床に押さえつけられて軋む体の骨とか、見ないふりを貫き通す視線の交わらない母の瞳とか。模試の結果が悪かった弟の部屋で行われる父の折檻の、壁越しに聴こえる肉を打つ音とか、弟の啜り泣く声とか。わたしの座っている椅子を背後から蹴った従兄弟の、殺したいほどおぞましいにやけ顔とか。いったいいつになったら、わたしはそれらをきれいさっぱり忘れ去ることができるのだろうか。

受験に落ちて浪人が決まったあの日、わたしは品川駅から鈍行を乗り継いで母方の祖母の住む京都に家出をした。京都駅に着いたのは日付が変わるころで、財布に入っていた最後の10円玉で公衆電話から叔父に電話をかけて迎えに来るように頼んだ。八条口で叔父と待ち合わせていたのだが、先回りしていた母と伯母たちにとっ捕まってしまい、なんともみっともない形でわたしの一世一代の家出は幕引きとなった。

わたしを捕まえるために、親戚一同が祖母の家に集まっていた。事情聴取が一通り終わり、母がキッチンで洗い物をしている背中を、テーブル越しにぼんやりと眺めていた。わたしは疲弊しきっていて、ただぼんやりと空気の抜けた風船のようになっていただけで。ほんとうにただ、それだけだったのに。

擦り切れたわたしにとどめを刺したのは、ほとんど交流もない、年に一度顔を合わせるか合わせないか程度の付き合いしかない、従兄弟だった。彼は同い年だが3月生まれのため学年は1つ上で、つまるところ4月生まれのわたしとは1ヶ月しか差がない。昔から頭が悪くて傲慢で浅薄な彼のことは嫌いだったのだけれど、母の姉の子供だったから、嫌なことを言われてもいつも我慢するしかなかった。そいつが、後ろから唐突に、わたしの座る椅子の脚を思いっきり蹴っ飛ばしたのだ。

あんまりにも突然の出来事だったから、思考が一瞬停止した。驚いて振り向くと、その男はにたりと笑っていた。何座ってるんや、手伝えや、などと言われた気がする。でも、明確には思い出せない。そこだけ霞がかかっているようで、ひどく曖昧なのだ。男の顔を凝視していると、もう一度椅子を蹴られた。衝撃でわたしの体が跳ねるように浮いた。

そこでやっと、絞り出すような声で、わたしも何かを言い返した。でも自分の台詞すら、はっきりとは覚えていない。黙れとか、それだけ言うのが精一杯だったように思う。それを聞いた男は「なんとでも言え、なんとも思わへんから」とせせら笑った。

その場には何人も大人がいたのに、誰も彼を咎めなかった。母はわたしを振り返って面倒くさそうに「なんで言い返したん?」と言うだけだった。

早稲田に落ちたわたしは、椅子を蹴り飛ばされても仕方ないほどのゴミクズなのか。自殺未遂を犯して命からがら逃げてきても、それでもなお、辛かったねと声をかけてもらえぬほど価値がない存在なのか。

あとから聞いたことだけど、そのときのわたしは椅子の上であぐらをかいていて、そいつはそれが気に食わなかったらしい。行儀が悪いから椅子を蹴った、椅子であぐらをかいていたチカゼも悪いというのがそいつの母親の主張だが、あぐらをかくことと椅子を蹴ることのどっちが行儀が悪いのか理解できないようだ。行儀の問題を通り越して単なる暴行であるということが、この期に及んでまだわからないその頭の悪さに辟易した。

従兄弟を含めた親戚連中が帰ったあと、祖母の家の2階でわたしと母と母についてきた弟は布団を並べて寝た。わたしは泣きながら「なぜあいつを怒ってくれなかったの」と母に詰め寄ったのだが、母は「疲れているから」と鬱陶しそうにあくびをしてあろうことかそのまま眠ってしまった。わたしは朝まで布団の中で啜り泣き続けた。

まだ、18歳だったのだ。18歳なんて、ほんの子供だ。自分がこの年齢になったからこそ、そしてその年齢の子供たちを指導する予備校講師として勤めていた経験を経たからこそ、改めてそう思う。わたしはまだ、親の愛を必要とする、幼い子供だったのだ。蔑ろにされていい存在じゃなかった。慮ってほしかった。

あんな脳みその足りない甥に、自分の子供がコケにされて、悔しいとも思ってくれない母が憎らしかった。憎らしくて憎らしくて、それが愛されていない証拠のように思えて、どうしようもなく惨めに思えた。

そいつは3人兄弟の末っ子で、兄貴たちからは幼いころからいじめられていた。だからなのかは知らないが、自分より下の親戚に当たりがちだった。中学生くらいのころ、まだ幼稚園生だった別の従弟が法事の最中に少し騒いでいただけで、顔を真っ赤にして「あいつの根性を叩き直さなあかん!」などと息を巻いていたのをよく覚えている。その様子があまりに異常で、俗っぽい言い方をするならば心底ドン引きした。

だから10年経っても、あの従兄弟のことを忘れることができなかったのだ。そのあとも何度か顔を合わせる機会はあったけれど、顔を見るだけでくびり殺してやりたい衝動に駆られた。嫌いだった、心の底から憎悪していた。どれだけ忘れようと努力しても、いまさら仕方のないことなのだと己を宥めすかそうとしても、癒えていない傷は体の内側で化膿していくだけだった。

そして、爆発した。

ある日何気なくFacebookでそいつの名前を検索にかけたら、ヒットしてしまったのだ。見つけてしまったらもう、止められなかった。気がつくとわたしはそいつに「10年前のあの日の謝罪は、いつになったらしてもらえるんですか」とメッセージを送っていた。それが先月の中旬のことだった。

返事が来たのは、虫垂炎の受診のために病院に訪れていた日だった。文章は恐ろしいくらい稚拙で、解読が不能だったけれど、謝罪する気がないことだけは伝わった。それだけではなく、わたしを「世界一不幸で可哀想」だと断じ、自分のやったことを正当化し、挙げ句の果てには「あなたは周囲の人を傷つけることを厭わない人間だから将来子供ができたときが心配です」などと貶めるようなおよそ信じられない内容が書かれていて、わたしはその夜一睡もできずに一晩中吐き続けた。

吐きながらも、わたしは奴にメッセージを送り続けた。不思議なことに頭に血が昇っているときほど、相手を貶す言葉は堰を切ったように止まらない。わたしは取り憑かれたように親指を動かして文法という概念を無視した支離滅裂な文章を逐一添削し、どれだけそいつが空っぽで薄っぺらくて浅はかで下品で愚劣かを並べたて、およそ30スクロールにも及ぶ罵詈雑言をぶつけた。

フラッシュバックを起こしながら、翌日わたしは母に電話をかけた。なぜあのときあいつを怒らなかったのか、それどころか言い返したわたしを咎めたりしたのか。わたしはあなたの子供じゃないのか。わたしが可愛くなかったのか。あなたはわたしの母親じゃないのか。

母親は、そこでようやく事態の深刻さを理解したらしい。突然泣き喚き出したわたしに動揺し、10年経ってようやく自らの姉に息子を咎めるよう連絡を入れた。

なにもかもが、あまりにも遅すぎる。「あんたを守ってやれんで悪かった。姉さんの子供やから遠慮してしまったんや」と母は泣きながら謝罪してきたけれど、せめてあの日、あの夜にその言葉を言ってくれていたなら、何かが違っていたのかもしれないのに。

なぜわたしは、母の立場をあのとき慮ってしまったのだろう。わたしのことなんかちっとも大事にしてくれない母を、それでも大切にしようとしてしまったのだろう。自分のことを蔑ろにしてまで母を守ってしまったのだろう。大学受験に落ちたくらいで、なぜ自分のことを無価値だと決めつけてしまったのだろう。

いちばんわたしを慮らなかったのは、結局のところわたし自身だ。わたしがわたしを、守ろうとしなかった。大切にしなかった。だからこんなに長い年月をかけて、消化不良を起こしてしまったのだ。もっとも悪いのは、わたしだった。

好きなだけ口汚く奴を罵って、アカウントをブロックした。それでようやっと、わたしは気持ちを落ち着けることができた。

わたしが真に求めていたのは、奴からの謝罪なんかじゃない。だって、椅子を平気で蹴るような奴が傷つけた人への悔恨など持ち合わせているはずがない。そんなことわかりきっている。理解して欲しいとも、わかり合いたいともハナから思っていない。わたしがしたかったのは、相手に思い切り怒りをぶつけることだった。言えずに仕舞い込んだ憎悪をこれでもかとまっすぐ相手に投げつけて、膿を出し切って、そこで初めて気持ちを成仏させることができた。

よく「復讐は何も生まない」というもっともらしい言説で被害者を慰める人がいるけれど、あれってウソだ。どうにもできないことに対して無理やり折り合いをつけさせるために、誰かが唱えた呪いだ。もう何年も前のことを今さら掘り返して何になる、忘れて前に進めと、いかにもそれっぽい言葉で被害者だけに我慢を強いて、被害者だけが死んでいく。

恨みや憎しみを持ち続ける人に対して、しばしば「大人になりなよ」と肩をすくめて説教する人もいる。それがそもそも論点のすり替えであることを、誰も指摘すらしない。嫌なことを嫌だと主張することは、大人になりきれていない証左なんかじゃない。大人になったからこそ、あれは加害だったんだと認識できるようになったのだ。主張できるようになったのだ。

フラッシュバックを起こして泣き叫ぶわたしを、母も伯母もこいつも、「前に進めていない」「過去に囚われている」「今が不幸だから昔のことを思い出す」と勝手に断ずる。そうじゃない。「現在幸福であるかどうか」と「誰かを憎むこと」には関係がない。それとこれとは、まったく別の問題だ。どれだけ今幸せでも、フラッシュバックはふとした瞬間にわたしを襲ってくる。

そんなの当たり前じゃないか。愛すべき人が隣にいたって、そんな簡単に憎しみは消えない。わたしはそこまで単純でも単細胞でもない。なぜ、さも引きずるわたしが粘着質かのように語られねばならないのだ。あまりに陳腐で短絡的な発想だ。

これらは傷つけられた人の口を塞ぐ、セカンドレイプだ。お綺麗な言葉でもっともらしく諭すことで、被害を訴えることを妨げようとする。加害者に都合の良い、正論に見せかけた暴論に過ぎない。

わたしは、誰にも手を差し伸べてもらうことのできなかった、踏み躙られて傷ついた、ケアを求める18歳のわたしを救いたかったのだ。この復讐を通じて、わたしはわたしの尊厳を取り戻したかった。それだけだ。

あいつに罵詈雑言をぶつけることのできた、復讐を完遂できた今の自分を、わたしは誇りに思う。今までの人生で他人に言ったことがないほどの最低な言葉をあいつにぶつけたけれど、罪悪感は微塵もない。10年経ってやっと、わたしはわたしを抱き締めることができたのだ。そのことをわたしは絶対に、恥じたりしない。

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