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自由になるための技術 リベラルアーツ 山口周

「リベラルアーツとは何か?」
近頃、よく耳にするリベラルアーツ。
ぼやけた意味は理解できるが、ハッキリと輪郭が見えてこなかった言葉。

山口周さんは
リベラルアーツとは
「目の前の常識を相対化するための思考技術」
と著書の中で繰り返し話されれている。

・AIの発達する時代
・変化の激しい時代
・知識が価値をもたなくなった時代
・「役に立つ」より「意味がある」が重要な時代

「平均化」や「客観性」を求めるなら、AIに任せておけばいいし、そこでAIに勝負を挑んでも体力お化けのAIには人間が歯が立たない。
だからこそ自分を縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、自らによって考えながら、すなわち、自分自身の価値基準を持って動いていかなければ、新しい時代の価値は作り出せない。

この『自由になるための技術 リベラルアーツ』はイラスト、歴史、仏教などの各業界の第一線で活躍される方々、7名と山口周さんが対談がまとめられた1冊。
特に、私の心に直接触れた部分を中心に、以下抜粋していく。

Appleでみるリベラルアーツ

日本の携帯電話がアップルに淘汰された。
日本の携帯電話業界は正しくて、強い商品を作ったつもりでいた。しかし、直感的にかっこいいと感じるアップルの商品が出てきた途端、足を救われるように負けてしまった。正しさすらもう強さにはならないことが証明された。正しさとはもうコモディティーである。正しさだけだともはや当たり前のこと。誰が考えても同じ結論になる事しか提案できないと気づいた。

文化と文化の河口付近で起こるイノベーション

異なる分野の人が交わる場所でイノベーションが生まれやすい。例えばビートルズが出てきたのも、音楽のメッカであるロンドンではなく港町のリバプールだった。港町は、異なる文化や民族の結節点となる場所。中央は洗練が進むが、故に保守的になり、異質なものや新しいものは辺境から生まれるというのが、歴史の法則である。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

これは時間軸の問題で愚者はごく短い自分の経験からしか学ばないが、賢者は時間軸を伸ばして先人や他人の経験から学ぶことで、失敗を防ぐという意味。例えば東日本大震災のことを学んだ人と学ばなかった人がいたとして、次に大震災が起きたときに助かる可能性が高いのはどちらだろうか。人間が自分の経験に学べるのは、せいぜい数十年の間に起きたことだけ。これに対し何千年も続いてきた過去の歴史には、大災害の記録を始め、学べることが山のようにある。

日本のサービス産業に見られるねじれ

グローバルな潮流はサービス業モデルの転換しているのに、日本は製造業モデル、「工場で大量の人を使って同じ仕事を大量の時間を使ってやらせる」というモデルから脱却できていない。スポーツで例えるなら、野球からサッカーに種目が変わっているのに、トレーニングのやり方も、選手の育て方も変わってないから、様々なところにねじれが生じている。

イノベーションを起こ料理

「おいしい料理」とは、いろいろ材料と上手な調理法で構成されている。色々な材料とは、さまざまな知識。上手な調理法とは自分の頭で考える力。知識は材料だか、材料を集めただけでは役に立たない。どの組み合わせで調理すれば美味しくなるのか、論理的に考える力があってこそ「おいしい料理」、つまり、「おいしい人生」が完成する。「おいしい人生」はイノベーションと言い換えることもできる。様々な知識× 論理的に考える力がイノベーションを生み出す。

原罪と契約

キリスト教では、人間というのは、そもそも間違いを犯す。困った存在であるとしていて、これを原罪と呼ぶ。そういう困った人がしっかり生きるに神が、そして、教会が助ける必要がある。とは言え、どう助けるかは聖書に詳しく書いてあるわけではないので、聖書に書いていないことをあらかじめ人間が決めておくと言うふうになる。これが法律で、法律はすべての人が合意して決める契約と言う形態を取る社会契約。近代法の基盤となる考え方ですが、契約だから拘束力がある。しかし自分が合意したものなのだから、契約に従う事は他の人間に従うことではない。キリスト教では、人間は神だけに従うべきでなければならない。さもなければ、独立した存在であるべきだと考えている。つまり、キリスト教では、人は神と一対一で結びつき、人と人とは契約と法律で結びついる。例えば結婚や野球選手の投球回数。全て契約である。契約=法律によって全て動かすというのがキリスト教社会の基本。

学校教育のゆがみ


学校教育でも、生き方や人としてのあり方といった心の部分よりも、国語、算数、理科、社会などの生きるための技や手段に重きが置かれてきた結果、根っこなくて枝葉だけが茂っているようなアンバランスな状態になってしまいました。確かに今は物質的には豊かになりましたが、精神的には貧しくもろくなってしまい、その歪みが様々な問題となって表出しているように感じています。

客観的ならAIの方が優れている

主観的とは主体的でもあり、それ故自由で自律的でもある。主観的だからこそ責任を伴う。客観は自分のこと。つまり主観的ではないから責任を取らなくて良い。しかも客観的な意見は同一性が高いため、意思決定も楽。客観的な判断だけなら、AIの方が優れている。

リベラルアーツとは選球眼をもつこと

イノベーションを駆動するには、常識への疑問がどうしても必要だか、常識を疑うのは実はとてもコストがかかる。このパラドックスを解く鍵は一つしかない。「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つこと。そして、その選球眼を与えてくれるのがリベラルアーツ。リベラルアーツというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。

リベラルアーツを身に付けるには、旅にでる

リベラルアーツと目の前の常識を相対化するための思考技術である。そのような相対化する視点を持つためには、「人と話す」、「旅に出る」、「本を読む」の3つが重要だという。この3つのうち実は「人と話す」と「本を読む」とは異なり、「旅に出る」と言う営みだけを持っている特徴がある。
それは1次情報に触れるということ。1次情報というのは人の手を経由していない生の情報ということ。ユニークな思考力や着眼点を持とうと思って勉強してもインプットされる情報が全て二次情報であるが、なかなか人と異なる着想を持つことができないところが、インプットされる情報が既に人と異なるのであれば、ユニークな着想を持つことも相対的に容易になる。


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