見出し画像

オテサーネク 妄想の子供(感想)_示唆に富んだ、怪作にして快作

『オテサーネク 妄想の子供』は2001年1月日本公開のチェコ映画で、監督・脚本はヤン・シュヴァンクマイエル。
20年以上前にユーロスペースで観た記憶があって、久しぶりなのにおよその内容を覚えていたのはあまりにもインパクトの強い映画だったから。
当時はチープでグロテスクな映像に全部持ってかれたせいで内容を咀嚼することが出来なかったけど、改めてその魅力を考えてみる。
以下、ネタバレを含む感想などを。

グロテスクな映像に挿し込まれる、悪趣味な笑いどころ

不妊に悩むホラーク夫妻は子どもが出来ないことで精神的にまいっていた。夫のカレルは街で量り売りする食材が赤ん坊に視えてしまうし、妻のボジェナは塞ぎがちで生気がない。

カレルは泣き暮らす妻のために、アパートの隣人シュタードレル氏の勧めで森に佇む別荘を購入した。
ある日カレルは別荘の庭に生えていた木の根っこを掘り起こし、赤ん坊に似ているからと妻に見せたところ精神的に限界だったボジェナは、木の根っこを自分の赤ん坊のように扱うようになる。
それだけならまだ良かったのだが、やがて木の根っこがポジェナの乳首を吸うようになり、旺盛な食欲に拍車がかかると遂には人を襲い始めるという物語。

人を襲う食人木の様子は、シュタードレル夫妻の娘アルジュビェトカの読む民話「オテサーネク(食人木)」にそっくりで、夫妻は持て余してオテサーネクをアパートの地下へ幽閉するも、今度は妹の欲しかったアルジュビェトカが可愛がるようになり、エサとしてオテサーネクに人間を襲わせるようになる。

映像的にグロテスクなシーンが多々あり、食べられた人間の内蔵や血が飛び散ったり、オテサーネクの口にあたる穴から歯だけでなく眼球も覗いたりする。
その動きがコマ落ちしたような雑なストップモーションだったりしてリアリティが希薄なおかげで残酷さは和らげられるが、BGMにオテサーネクによる赤ん坊の鳴き声が挿し込まれるのはシュール。

また、アルジュビェトカの読む本が性行為の様々な体位を紹介するものであったり、学習したオテサーネクがカレルを襲う前に手を洗うシーン、度のキツイ眼鏡で下半身を凝視してくる幼児性愛者の老人など、笑いどころはあるものの、人によっては嫌悪感を覚えるであろうギリギリの線を攻めている。

エンディングは絵本をなぞって、鍬を握りしめた管理人がオテサーネクの元へ行くシーンで終えるが、結末は分からないまま終わるが、オテサーネクは体も大きく凶暴になっているのでひょっとしたら老いた管理人では民話のように退治することは出来ないかもしれない。
結末を見せないのは本作に込められたメッセージの受け取り方によって、エンディングがいかようにも変わるから敢えて映さなかったのではと想像している。

エゴイスティックな愛情表現

本作は民話をもとにしたヤン・シュヴァンクマイエル監督による映像化となるが、作品に込められたと思われる2つのメッセージについて考えてみる。
まずひとつ目、歪んだ愛情表現について。

当初は乳を吸うくらいしか出来なかったオテサーネクが人を襲うような危険な存在に成長したのは、ポジェナやアルジュビェトカが溺愛したからだ。
さらに飼っていた猫、郵便局員、福祉事務所の女性まで襲っておきながら、オテサーネクを始末しようとする夫を止めようとする。猫は年寄りだったしや郵便局員は退職寸前で、福祉事務所の女は横柄だったと説得をして、なんなら毎年交通事故で大勢死んでるし社会の損失ではないとまで言い切っている。
アルジュビェトカも幼児性愛者のジュラーベクを襲わせているが、この二人に共通するのはオテサーネクのためなら周囲が犠牲になってもかまわないという身勝手さだ。
二人の歪んだ愛情はもはや行き過ぎで、エゴイスティックな考え方は自国の利益を増大させるために他国へ侵略戦争を仕掛けるのにも近いものがある。
チェコではプラハの春(1968年)に対してソ連・東欧による軍事介入をされているから、ひょっとしたら理不尽な侵攻への批判を含んでいるのかもしれない。

食べることへの嫌悪

込められたと思われるもうひとつのメッセージは、人間が生きていくために食べることの罪について。

ヤン・シュヴァンクマイエルはものを食べたがらない子供だったという。本作では食事シーンが繰り返し登場し、鍋からスープがすくわれたり皿に盛り付けられるが料理はどれも色が悪くてとても不味そう。さらに食事中の口にカメラがズームするから見ていて不快な気分になる。
映画の食事シーンといったら、フードスタイリストがアサインされて料理の見栄えを気にしたり、映像的な美しさで作品としての魅力を引き上げることもあるが、本作ではその真逆を行っているのがユニーク。

なぜ監督が食べることに消極的でわざわざ不味そうに撮影したのか、その理由を知らないので以下は想像となる。
オテサーネクは人や動物の死肉を食べることで生きながらえているが、それは同時に他の何かの死が伴う行為になっていることが直接的に表現されていた。
それはつまり我々人間も同様で、牛や豚、魚などの肉はもちろん、野菜であっても生き物の死を”いただいている”ことに変わりはない。
監督がそういった「生きていくために犠牲になっている死」に対して敏感な人だからこそ、あえて食べる行為を醜悪なものとして見せたかったのかもしれないのではないかと考えた。
木が人間に逆襲する様子から、環境破壊の象徴として伐採される木(=自然)からのメッセージとも捉えられるが、食べる映像を不快にみせる理由も含めると少し遠いかなと考えた。


「エゴイスティックな愛情」そして「不味そうな食事シーン」と、そんな映像が満載なためとても暗い作品になりがちななのに、歪なユーモアのエッセンスがそこかしこに挿し込まれていることで、何年経っても記憶に残る印象深い映画になっていることは確か。

少し太めで目つきの悪いアルジュビェトカのインパクトもすごくて、読んでいる本のせいか、年齢の割にやたらと性に対する知識が多く、不妊に悩むホラーク夫妻に対して「精子がノロマ」と言っていたのが印象的。
さらに幼児性愛者の老人が同じアパートに住んでいるのに、スカート丈の短か過ぎるのは作為的なように思えるし、ジュラーベクをオテサーネクへ喰わせるために誘惑する動きのあざとさといったらない。「私がここにいるのよジュラーベクさん」と、スカートをまくり上げる動きがこなれ過ぎだった。
やっぱり、鑑賞後の余韻としてはブラック・コメディとしての印象が強い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?