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ホリー・ガーデン(感想)_曖昧な結末と余分な描写が好き

江國 香織による1998年の小説。10年以上前に読んだ本を読み返す。こういう淡々とした小説は読むのを中断するのが簡単だし、日常の余分な描写から心の余裕を取り戻すことができるのがよい。

<ストーリー>
果歩と静枝は高校までずっと同じ女子校だった。ふと気づくといつも一緒だった。お互いを知りすぎてもいた。30歳目前のいまでも、二人の友情に変わりはない。傷が癒えない果歩の失恋に静枝は心を痛め、静枝の不倫に果歩はどこか釈然としない。まるで自分のことのように。果歩を無邪気に慕う中野くんも輪に加わり、二人の関係にも緩やかな変化が兆しはじめる……。心洗われる長編小説。

拗らせた二人のアラサー女の友情

果歩は料理上手。華奢な体つきで美人だが、都合が悪いことからはてきとうな理由をつけて逃げるような幼いところがある。5年前の失恋のせいか、感情的になることを好まず、夕食はかならず誰かと一緒に食べる。なるべく心穏やかでいたいので急な来訪者を好まない。
静枝は背が高い美人で、規則正しいことが好きで自分が成長している実感を求めていいる。また生真面目でしっかりした性格をしているが芹沢という気障な中年と不倫をしている。

果歩には親友と呼べる友達が静枝くらいしかおらず、静枝には大学時代からの友人が複数いるが生真面目な性格のせいか、少し周囲から浮いている印象。
美人であったり、頭の回転が早かったりすると集団から浮いてしまう。かといって自分から歩み寄って周囲に合わせることが下手くそな二人なので、そういう意味では似ているところがあるし孤独になりがちだ。そして、一人になって考えることはどうも暗い方向へ向きがちでそんなところもそっくりだ。

何でも言い合えるわけではないし、お互いのためを思って発言できるほど単純な仲ではないが、この二人は親友だと思う

果歩と静枝は小学生時代からの20年来の付き合いになるが、お互いに触れてはいけない話題が多くあり、何でも話せるような気のおけない仲というわけでも無い。
触れてはいけない話題があるというのは、お互いの傷つく話題がどんなことなのかを痛いほど理解しており、気を遣って会話していているから。相手が落ち込んでいる時には、電話越しにも分かるほど。だけど相手のことはお互い客観的によく見えているので、自分に余裕がないときなどふとした瞬間に相手が確実に傷つくようなことを言ってしまうこともある。

だったら会うのをやめたら良いのだが、用も無いのに職場へ電話をするし、たまに一緒に食事もする。タイプの違う二人でありながら、お互いの負の側面をよく理解しており、そこを理解した上で付き合い補完しないとといれない半身のような存在となっている。
そんな二人の付き合い方は年を経ると変化もする。その関係性は複雑なわけではないのだけれども、代わりの人間が現れるでもなくハッキリと割り切れるものではなかった。しかし中野は果歩の駄目な部分を理解したうえで果歩と一緒にいてくれるし、芹沢は静枝の上澄みしか愛していないため、この小説に描かれていないその後の果歩と静枝の関係性は変わってくるのであろう。
果歩と静枝はそういう曖昧で割り切れない関係性で繋がっていて、自分はこの二人のやり取りが単純でなくていいなと思う。
なんというか自分だけが孤独ではないというか、構って欲しくてわざと拗ねたり。そういう自分の行動の裏側にある感情を抑えられない時は確かにある。そういう時って他人から指摘されてもその場では素直になれないし、後から自分で気付かされたりする。この二人はきっとそんなやり取りを何度も繰り返してきたのだ。

果歩が津久井のことを忘れられないワケについて

5年も前に別れた男を忘れられず、時折深く落ち込む果歩の痛々しさに気味の悪さを感じて読み続けることになるわけだが、終盤にやっとその理由が明かされる。

別れ話が悲しかったわけではない。
その方がいいと思ったんだ、と、あのときうしろから津久井は行った。妻帯者ってことにしといた方が、お互いにわずらわしくなくていいと思ったんだ。
果歩はため息をつく。臆病な男だった。臆病で不器用で嘘つきで、ほんとうに変な男だった。ごめん、と言ってうつむいた津久井の横顔は、叱られた子供のように淋しそうだった。
一度も電話をしなかった。一度も無理を言わなかった。五年間だ。恋愛のさなかに相手に怖がられていた。そう思うとなにもかもが許せなかった。頭も喉も心臓も、煮えてしまうようだった。

つまり、津久井は妻帯者だと偽って果歩と5年間付き合っていたわけだが、果歩だって別に津久井と結婚がしたかったのでは無いのかもしれない。
そんなことよりも、津久井のセリフからは5年間もの間「妻にバレたとでも言えば、いつだって別れられると考えていた」とも受け取れる。そんな不誠実なことを言われたのが果歩からしたら絶望的な程悲しかったのだろう。しかも追討ちのように別れ際に言うなんて。

津久井が果歩の家泊まることがなかったことからも、津久井からすれば身体の繋がりが目的で、果歩と四六時中一緒にいることには耐えられず、果歩の内面には愛情が湧かなかったのかもしれない。
しかも果歩からしてみたら、幸福な時間を津久井と共有していたつもりだったのに、相手からしたらそんなことも無かったのだと、幸せだった思い出すら全否定されてしまう。写真が証拠して残っているだけに一人だけはしゃいでいたのかと思うと哀しくもなるだろう。
静枝からは復讐のようにいろんな男と寝ると指摘されていたが、津久井から全否定された果歩は、自分の居場所や存在意義が欲しくて柴原や大学生と寝ているのだと思う。

果歩はなぜ合鍵を返してもらおうとしたのか。

大切では無い男と寝ることは出来るが、中野とはなかなか寝ることが出来ない。中野が自分のことを見捨てない大切な存在であるからこそ、また捨てられるくらいなら最初から中野を所有しなければいいと考えてのことだ。中野から合鍵を返してもらうということは、失いたくないからこそ所有もしたなくないという気持ちから出てきたことなんだと思う。

はっきり言って自分も他人とコミュニケーションを取るのは面倒だと思うことは多々ある。一人はやっぱり気楽でいい。
でも、そういう態度を表に出しても素知らぬ顔で踏み越えてきてくれる中野みたいな存在を有り難いとも思うこともある。

そういう中野を大切に思う自分の気持ちに素直になってやっと中野を受け容れる果歩。現実だったら、ここまでしつこくしぶとい男なんてまずいないと思うのだけれども、そういうところも含めてこの小説で最も救われるシーンだ。

芹沢との関係が続かないであろう静枝

静枝と付き合っている芹沢という男。この男のクズっぷりがまたいい感じだ。だいたいこういう芸術家気取りな人間というのは世の中にたくさんいる。
だいたい自分が芸術家として成功していない理由を自分の才能が無いからではなく、自分の作品を理解できない周囲のせいにするのだ。他責にしている負の感情を創作意欲へぶつけられたならばまだ良いのだが、たいていの場合努力する才能は持ち合わせていないため、批評家気取りで世の中を斜に見ていたりする。それ故に常に人を見下したような態度や発言をするし、結局のところ傷つきやすく自分のことが一番可愛いのだ。だからこそ静枝の抱える負の側面へ踏み込むことが出来ないし、上っ面だけの関係しか築くことが出来ない。

静枝自身も元彼(祥之介)に不倫について聞かれ、ホープレスだと言っているが、静枝自身もまさか芹沢と幸せな老後を過ごせるとは心の奥底では考えていないのだと思う。敢えて静枝と芹沢の関係を何らか進展させずに曖昧に終わるのも良い終わり方だと思う。果歩だけが中野によって救われるというのもやりきれない。

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20年も前の小説のため、いちいち懐かしい気持ちにさせられるシーンがところどころある。
Amazonプライムなんて無いから、家で映画を観るためにいちいちVHSのビデオをレンタル店で借りてくるし、SNSや携帯電話の無い時代のため職場へ電話してきたり。
待ち合わせ場所を予め決めておいてドタキャンした時の罪悪感と言ったら無いとか、そういう気持ちを思い出す。もっとも、果歩はドタキャンをしてもされても、さほど気にしていないようだが。

また、作者も"あとがき"へ書いているが、話しの本筋からすると"余分なもの"が多い。そういういちいち余分な日常の描写を楽しめるという意味では、果歩と中野が観る小津安二郎の映画のようだとも言える。女子の好きなモノが文章のそこかしこへ散らばっているので少しとっつきづらくもあるけど。


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