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【小説】シソと人間と。

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シソの葉が生い茂っている。
まるで、私達に食べられまいと体を大きくみせ、青々と大きく成長している。
庭を埋め尽くす程のシソは、他の植物のことなどお構い無し。土の栄養分を根こそぎとっているかのような図々しい生命力に満ちていた。

シソと呼ぶべきではないかもしれない。
シソは、紫蘇と書くように赤シソのことを指し、青シソを私達は大葉と呼ぶ。
私の小さな庭に植えられたシソは、つまり大葉である。

大葉は、その名の通り大きな葉で他の植物たちを魅力していた。魅力していたのか、腫れ物扱いしていたのか、甚だ疑問であるが。
しかし、私の家ではシソと読んでいるので、シソという呼び方がしっくりくる。

そんなある日。図々しさが裏目に出たのか、数日もすると弱々しく萎んだ大きな葉が、ぽとぽと土に落ちていた。まだ萎むような時期でもないのに。
反抗心のようにギザギザとした葉の周りは、今やすっかりしおらしく、同情する。
その姿は、他人の生命活動に無関心で、自分の成長を優先したがための命の代償のように思えた。

滑稽な私たち、人間に似ている。
今まで丁寧に築いてきた関係を、私利私欲、一瞬の自己満足を満たすために、簡単に壊す。そして傷つけた事実は、いずれ孤独と罪悪感と自責の念にもって自分自身を傷つける。

シソの葉が自らの成長を棚にあげ、支えてくれる土壌や他の植物との関係を壊したように。秩序ある土壌内の守るべき一線を超えてしまったかのように。それはまわりまわって、自分への生命活動への致命的ダメージになった。

人間も、超えてはならぬ人間関係における一線がある。疑心暗鬼と探り合い。1度どちらかがそうなってしまった暁には、いつまでも傷つけた事実は付き纏う。幾度となく繰り返せば、残るのは真の孤独。善良な心は少しずつ蝕まれ、麻痺していく。
悲しいもので、負の感情の振れ幅が大きい程、記憶に刻まれてしまう生き物。一生の負債という代償を負う。

はて、シソは記憶するのだろうか。
この土壌で傲慢をはたらいた記憶を。
来年もまた何食わぬ顔で、私の小さな庭で、他を魅力し、涼しい顔で夏を味わっているのだろうか。

人間も、植物の世界も、同じ。
同じ生きとし生けるものという広い枠で、私達は絶対的な一線をゆらゆらと揺れながら生きている。

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後記:

小学生の頃から、窓際で植物を見て、人間と似たところを探すのが好きでした。
みんな同じなんだと安心できたからかもしれません。
ノートと鉛筆を持って寝転び、風にゆれてる雑草を眺めて、この景色を言葉だけで伝えることができないものかと、思いついた言葉を書き出し、詩を書いたりしていました。
詩では、私の表現や思考を形にできないと思い、短いお話を作るようになりました。
お話といっても、私が頭で繋げて考えたことを好きな言葉でゆるく綴っているだけです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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