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禅僧の正法眼蔵講話「摩訶般若波羅蜜」メモ書き1日目

今日は坐禅会後の講話で、正法眼蔵の「摩訶般若波羅蜜」を読み始めた。

毎回のことではあるが、私は講話する前には、話したいことをメモしている。どんな話をするか、思いついた話を箇条書きにして、ある程度話す道筋を決めている。

ただ、今日は話が全く想定通りに進まなかった。別に悪い意味ではなく、自分でも話がどこに行くか分からないほど、話が膨らんだ。

般若(智慧)や空のことなど、雲をつかむような話をするのだから、致し方ないと言えば仕方ないのだが、予想外にもほどがあった。

でも、不思議と話はつながっていく。もちろん、箇条書きにしたことにも触れるが、話はそれだけで終わらない。

話の要点は見失わないようにしつつも、それでも話はどこまでも膨らんでいく。膨らんでは要点を思い出し、膨らんでは要点に思い出しを繰り返す中で、自分の中でも話がつながっていく。

「ああ、自分の伝えたかったことは、結局、今回はこういう形で伝えるのか」と、随分他人事にように自分を観察している自分がいる。そしてそこから「なるほどな」と自分の中で腑に落ちることがある。

もちろん、話す前から何も分かっていないわけではないが、はっきりと分けられない話をどう表現するかなんて、話をする直前まで自分でも、はっきりと分からないのだ。

一応、話をまとめることはできたし、箇条書きにしたことも完全に無視するわけではなかったが、きっと同じ話をもう一回してほしいと言われても、次は無理だ。

似たような話になったとしても、同じ話にはならない。正法眼蔵の講話をはじめてから、このように感じることが増えた。

文章にまとめられないことが残念だが、私の理解を言葉にして一方的には伝えようとするだけでは、表現できないものだと感じる。

やはり実際に会って皆さんの表情を見、雰囲気を感じ、理解度を伺いながら話すと、補足や例話など、いろんなことが浮かんでくるのだ。

とはいえ、こうして文章に書くということも、話が脱線しすぎない為にも大事なこと。もしかしたら次に話す機会があるかもしれないので、一応どんな話に触れたかだけ、noteしておこうと思う。

正法眼蔵講話「摩訶般若波羅蜜」の備忘録

資料は正法眼蔵「摩訶般若波羅蜜」と「般若心経」を用意した。私にとって正法眼蔵「摩訶般若波羅蜜」は、般若心経を読む上でのいわば指南書みたいな位置づけになっている。

その理由は、中身を比べて見ると一目瞭然である。(※文章比較してみるとおもしろいですよ)

観自在菩薩が登場人物として出てくるが、お釈迦さんと違って、観自在菩薩は実在しない。(※お釈迦さんは歴史上実在する人物として考古学的にも証明されている)

途中、菩薩と仏、如来の違いについて質問もあったので答えた。

この実在しない菩薩が、般若(智慧)波羅蜜多(悟りの岸)を行じるとはどういうことか?

もともと実在しない人(?)が行事いるのだから、説明しようにもできるものじゃないし、よくわからない。

でも、「五蘊は皆、空である」と「照見」したと、あえて言葉にしてくれているのだ。

そして、正法眼蔵にはそれを、【渾身】の照見五蘊皆空とある。渾身とは、全身というほどの意味だが、身体全体、満身というか、もっともっと大きいというか、めいいっぱいというか、そんな意味だ。(※こういうのもジェスチャーを使いたいですね)

「渾身の一撃!」とRPGで出てくるが、クリティカルヒット(致命的な一撃)というだけの意味ではまだ狭い。

どうしてそんな一撃がでるのか、まさしく、全身全霊で、自分の全てを込めて放つその動作に表れるから、渾身の一撃になるのであり、単なる確率で出るものはない。

この”渾身”という言葉が、まず今回伝えたかった事のキーワードになった。

ちなみに五蘊も全てという意味にも翻訳できるが、五蘊と渾身では、同じ全てでも意味が異なる。

でもせっかく「五蘊は空」であると示してくれているので、空についても触れた。

空はよく空っぽ=無であると誤解されるがそういう意味では決してない。それは「色即是空」などの言葉からもわかるように、「色=空」なのだ。

色・形。難しい説明を省くと、それらは物質。目の前にある物、事象。それが「色」ということになる。

目の前の事象、物が、「無」なんて言えるだろうか?

きっとほとんどの人が目の前に「有」ると答えるはずだ。

では、反対に、目の前のものは「有」なのだろうか?

私達は知っているが、目の前にあるすべてのものがいつかは「無」くなる。

そんなやり取りは、空の思想がまだ定着していない、古い仏典でもたくさん見受けられる。(※以下もその一つです。他にもありますよー)

そもそも五蘊という仏教用語も、仏教の教えを表している。仏教が、仏教(仏の教え)なんては無いとだけ言うはずがない。それだけでは仏教の存在を否定する言葉になってしまう。

(※そういえば、五蘊という仏教用語が出てくる経典についても、こちらに書いたことがあります。ご参考までに)

ただし、仏教を知り、仏教知識を得た人間にとっては、「仏教の教えに執着するな」という意味では、大事な言葉でもあると思う。

(※こちらの話も参考になると思います)

知識を得るということは、先入観を得ることでもある。知識を得るということは、もうそれについては分かったと思ってしまうものである。
(※英語にすると理解しやすいかもしれません)

知識というのはCD-Rみたいなものだ。一度得ると執着してしまうことがある。(BD時代に古くてすみません)

執着してはいけないと教えられると、執着してはいけないという教えに執着してしまうようなものである。

執着というのは、人間にはあるものだ。ただし、その執着には気をつけなければいけない。気をつけなさいという意味で「執着するな」ではない。そんなこと言われても、人間である以上、執着という反応は起こる。

かといって、何でもかんでも執着もせずに新しいものにどんどん上書きされてしまうCD-RWみたいなのも困るだろう。

それは大事なものでさえ、どんどん上書きして無かったことにしてしまうことにつながる。

知識を得ることで分かるのだが、知識を得ることで見失うことも私達にはたくさんある。知識を情報に置き換えてもいいだろう。

仏教の伝えたい事はそんなことではない。教えの一つ一つはただの知識にすぎない。その一つに囚われると、全体を見失う。

この全体(全身全霊)で行っているのが、”渾身”だ。

それに知識がなくとも、仏教は伝わるのだ。(※頭の出来の悪い弟と超優秀な頭脳を持つ兄の話です)

でも分かるのは大事だし、伝えるには分かるように、分析して、判断して、「分別」が必要だ。でも分かると言い出すとそれに執着してしまう。だから分けられない「無分別」の話にもつながっていく。

そんな話をしていると、仏教って水について説明しているみたいだなと感じた。

固体のように凝り固まれば、他と交わることはできない。新たなものも得られず、場合によっては、そのかたまりで他を傷つけることにつながることも。

気体のように霧散すれば、それが何なのか、つかむことも、みることもできない。捉えどころがないので、周りからは中々理解してもらえない。

液体は、どんな器にも形を変える。どんなものにも変化できるが、形がないわけではない。どんなものにでも形を変えられる。形は有るけど、形は無いのだ。

そのなんにでもなれるのが、仏教。いや仏教に限らず、思想だったり、創造だったり、コミュニケーションだったり、私達の日常生活にも通じている話だと思う。


以上、ノートの箇条書きと本日話した記憶をもとにした備忘録でした。本日の講話とも、話が違う方向に膨らんでいる事柄もありますが、とりあえずここまで。

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