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武田勝頼は「桶狭間」を夢見たのか?

わが父が申しておる。武田信玄を超えてみせよと!

「どうする家康」第22回

勝頼(真栄田郷敦まえだごうどん)はどうして退かなかったのか??

ここは速攻で退いて、仕切り直すのが当たり前なのに、父の信玄を超えたかった?
そして、「桶狭間の戦い」を夢見たのでしょうか?

もしかしたら、父の信玄に反発していたのかもしれないとさえ感じます。

過去に戦国2世について書かせていただきました。

父があまりにも偉大すぎて、重臣たちの気持ちが離れていたようで、確固たる信頼関係が築けていなかったとされています。

重臣たちはいつまでも信玄を崇拝し、何かにつけて比較対象にしていたので、勝頼も彼らを疎ましく思っていたはずです。

だからこそ信頼を得るために、信長が起こした奇跡の逆転劇「桶狭間」を実現させるべく無謀な賭けに出たのでしょうか。


赤備あかぞなえは継承されてゆく

そんな中、山県昌景やまがたまさかげ(橋本さとし)が作戦失敗だと思いながらも、先陣を買って出ます。

自ら死を覚悟して突進し、そして見事に散ってゆきました。


「赤備え」は精鋭部隊の代名詞

構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた編成を指す。

Wikipedia

余談ですが、赤備えといえば武田軍、さらにそれはこの山県昌景の部隊を指します。

「どうする…」でも鮮やかな赤が武田軍のトレードマークとして描かれ、赤一色の家臣たちが、果敢に突進し、次々と斃れてゆく様は、なんとも哀しみを誘うものでした。

特に活躍目覚ましかった昌影の部隊は、当時は非常に恐れられた存在だったのです。


井伊と真田が引き継いだ赤備え

この時、家康の小姓として万事を見ていた井伊直政は、やがて自らの部隊としてこの「赤備え」を編成し、「関ケ原」では「井伊の赤鬼あかおに」とよばれるほど目覚ましい活躍を見せます。

一方、この時武田の臣下にいた真田昌幸はこの活躍を見、次男の真田信繁による「赤備え」が大坂の陣で、家康本陣を脅かすまでの精鋭ぶりを発揮しています。

両者はこの山県昌景の部隊にあやかって「赤備え」を編成し、目覚ましい活躍を歴史に残しているのを見ても、どれだけ素晴らしい部隊だっかが伺い知れます。

それだけ武田軍の強さは世に轟くものだったのです。


長篠の戦いの真の目的

前回の「どうする…」の鳥居強右衛門すねえもん(岡崎体育)の忠義の末の最期は涙を誘いました。

そもそもこの戦いは、徳川の領土であり軍事的にも重要な長篠を奪還するために始まりましたが、真の目的は他にあったようです。

「歴史探偵」によると、設楽原の合戦当時、武田も千丁の鉄砲隊を保持しながら、肝心の「玉」の数が少なくて鉄砲の意味を成さなかったというのです。

玉は鉛で作られたものが性能が良いとされていました。
なぜなら、安価で融点が低いため加工しやすく、比重が大きくて重いからです。

武田方の玉は、銅銭をなおして作られたものであったことがわかっています。

銅は鉛に比べて軽いため、運動エネルギーを失いやすく飛距離が短く威力がありません。

かといって、海のない山深い領地の武田は輸入するのも難しい。

武田の長篠侵攻の目的は領地内ある鉛の採れる鉱山・睦平鉛山むつだいらかなやまを押さえることが大きな目的の一つではないかとの事でした。

鉛の入手が困難な武田は、最新の鉄砲がいくらあってもそれを活かすことはできなかったのです。

だからこそ、何が何でも鉛の鉱山が欲しかったのが本当の長篠攻めの目的だったとも考えれています。

武田だけではなく、この時期の武将たちは、優れた武器を手に入れた方が勝ち。
そして手に入れるには莫大な資金が必要です。
だからこそ、経済力を手に入れた信長は有利だったと言えます。



貧乏くじを引いた勝頼

そもそも、信玄の4男として生まれた勝頼は、武田を継ぐ予定は全くなく、母の諏訪御料人の実家・諏訪家を継ぐために養子となっていました。

正室の子である3人の兄たちは、
長男の信義は父・信玄への謀反を企て廃嫡後に死亡。
次男の信親は盲目のため出家。(→江戸時代に再興)
三男は信之は11歳ですでに夭折。

思いがけず側室の子である勝頼に順番が回ってきたのは、彼にとっては寝耳に水であり、不幸の始まりでした。

言い換えれば、偉大な武田信玄の後継者としての自覚がないままバトンを渡されて、戸惑うの当たり前ではないでしょうか。

家臣団をまとめられなくても仕方がない。


信玄でも滅んでいたのでは?

勝頼が武田を滅ぼしたように言われがちですが、
ちょうど滅ぶべき時期に勝頼が当主だったと言った方がしっくりします。

もし、信玄が長生きしていたらどうなったか?
ちょっと妄想してみましょう。

信玄は信長に勝てたでしょうか?

この二人の直接対決はついに実現しなかったのですが、共通項は「勝てない戦はしない」事でした。

信玄が強かった理由は「勝ち戦」と見込めた場合のみ戦ったからだとも言えます。

信長も信玄には勝てないと踏んで、戦いを避けていました。

二人の大きな違いは、

・信玄は武力強化と作戦による戦
指示系統は信玄のひとつのみ
・信長は経済重視で領国経営を部下に任す
指示系統は複数に分かれる

家康が「三方ヶ原」で大敗した信玄の「西上作戦」さえ上手くかわすことが出来ていれば、信玄でも、信長の最新鋭の戦法の前に敗退していたのではないでしょうか?

暖簾分けもせず1店舗のみの老舗経営の信玄と、
どんどん支店を増やした全国規模の企業経営の
信長
とでは、近い将来どちらが残るかは明らかです。


惨めに滅ぶしかなかった

ちょうど悪いタイミングで信玄は死に、予期せぬ時期に跡を継いだ勝頼は、本当に不幸でした。

しかも父の信玄が偉大だっただけに、かなりの重荷だったはずです。

その上引き継いだ領国は山深く、海は遠く、都も遠い。

重臣たちの信頼を得て、父からもらった老舗を守り通すには、ここで一発逆転を狙うしかなかったのでしょうか?

信長の桶狭間での勝因は、自分の弱さを熟知した上で綿密な策を練っていた事にあります。

勝頼は「まぐれ」に期待したようですが、
信長は「計画」に富んでいた。

長篠城をめぐる「設楽原したらがはら合戦」にも信長の綿密な策士ぶりが発揮されています。



勝頼は決して愚将ではなかった

過去に図書館で借りて乱読したことがある本の中に、勝頼に関して以下のような事が書かれていました。

うろ覚えですが…確か「長篠合戦と武田勝頼」だったと記憶しています。
(下記参照)

~父の築いたカタチに捉われず、独自の基盤を築こうとしていた~

勝頼は、引き継いだ領国を全く違う形で新しく経営し直し、自らの権限を示そうとしていました。

ですから領国拡大よりも、国内の経営基盤を整えることに力を注ぎます。

それには確実な税の徴収が必須で、国民から見たら負担量は変わらないのに、取り立てが厳しくなり、それが不満に繋がってしまいました。

税金を値上げせずに頑張っただけ偉いのですが…

要するに、勝頼の先進的な改革に、変化を嫌う周りはついてゆけずに不満ばかりが先行したのです。


ただ徳川家康は冷静に勝頼を評していたようです。

勝頼は中世人の常識人であり、共通する思考ともいえる先例の遵守にとらわれない「物数奇」と評し、よほどの勇気がなければ出来ない

徳川家康の勝頼評
Wikipedia

今回の設楽原したらがはらの合戦での勇気ある行動は、勝頼の複雑な心境が根本にあったからだと思います。


さて、武田もこのまま急速に衰えていき、
徳川家でも「築山事件」が迫っています。

今後もいっそう、涙を誘うシーンが増えそうですね。





【参考文献】
長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)著:平山優
武田勝頼―日本にかくれなき弓取 著:笹本正治
Wikipedia

※トップ画像は「長篠城址」
photoACよりDLし、Canvaで制作しました。





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