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家康のブレーン「天海」と「崇伝」はどちらが黒いのか。

歴史上、権力者たちの軍師的存在として
「黒衣の宰相」と呼ばれた者たちがいます。

僧職にありながら政治に参与し、大きな勢力を持つ者。

コトバンク

たとえば、
今川義元の太源雪斎たいげんせっさい、豊臣秀吉には安国寺恵瓊あんこくじえけいや千利休、そして昨年の大河「鎌倉殿の13人」での慈円も後鳥羽上皇の黒衣の宰相と言えるのかもしれません。

徳川家康にも二人の高僧が存在していました。
その名は「南光坊なんこうぼう 天海てんかい」と「金地院こんちいん 崇伝すうでん」です。

只今、拙書「奥の枝道シリーズ 其の六」を執筆中なのですが、南禅寺のくだりを書こうとして、思い出した事があります。

南禅寺へと向かう途中に、たまたまその塔頭たっちゅうである「金地院」の前を通り、かつてここを住まいとした崇伝すうでんの事が浮かびました。

色々な思いが巡りましたが、他のメンバーには何も告げずに心をそこに残したまま通り過ぎたのを思い出したのです。


天海と崇伝。
家康の「黒衣の宰相」と言われたこれら二人の高僧について今回はまとめたいと思います。



「あずみ」で知ったこの二人

私がこの2人の存在と関係性を知ったのは小山ゆうさんの「あずみ」でした。

あらすじには触れませんが、幼い頃から山里深いところで、あらゆる訓練を受け、刺客として育てられた子供たちのお話です。

その中に天海も崇伝も家康の身近な存在として登場するのですが、崇伝が悪僧として描かれ、天海は、得体の知れない僧でありながら、家康が心の拠り所としているような人物として描かれていました。

これを読んだ当時は、崇伝=ヒール、天海=名僧?という図式が私の中にできてしまったのです。

これは単に個人的な解釈なのか?
それとも一般的な評価なのか?

いったい彼らはどんな関係で、家康にとってどのような存在だったのかと疑問が湧くきっかけとなりました。



二人のプロフィール

家康の心の支え・天海

「あずみ」の読了後、さっそく図書館で借りて読んだ「天海―徳川三代を支えた黒衣の宰相」で、家康が天海の事をこう評しています。

天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを

二人の出会いは1608年で、家康65歳、天海72歳の時でした。(※諸説あり)
~もっと早くに出会いたかった~
と、家康は後悔の言葉を残しているのです。

そして百歳を超える大変な長寿だったため、家康のみならず、その後の秀忠、家光まで3代にわたり徳川家の相談役として信頼を得続けたのです。

常に(家康の)左右に侍して顧問に与り

徳川実記

という記録もあり、家康にとって一番の信頼できる人物であり、大袈裟に言うと「心の拠り所」であったのだと想像できます。

18歳で比叡山にこもり、天台宗を学び、圓城寺えんじょうじ(三井寺)や興福寺でも修行したのはわかっているのですが、彼の基本的な事はわからないのです。

生年も出自も不詳で、様々な説が浮上しています。
・会津・蘆名あしな家の出身か?
・足利11代・義澄よしずみの子か?
・古河公方・足利高基たかもとの子か?
・明智光秀の仮の姿か?

明智=天海はないわ💧
お互いに前半生が不詳のために浮上した説だと思う


【黒幕要素】
・豊臣家の財力を削ぐ目的で、戦乱により焼失した比叡山や方光寺などの再建を画策したか?
・家康の寿命が尽きると判断した時、2代・秀忠のブレーンにシフトチェンジした?


家康の懐刀・崇伝

永禄12年(1569)、室町幕府幕臣であり足利一門の名門・一色秀勝の次男。

このまま何事もなければ、幕府内において不動の地位を約束されるはずでしたが、足利義昭が信長により京都から追放され、室町幕府が滅亡したことで、運命は大転回します。

官寺として最も格式高い京都の「南禅寺」にて出家し、京都「醍醐寺三宝院」、摂津「福厳寺」でも修行。

その後、相模「禅興寺」の住職、
鎌倉五山第一位の「建長寺」の住職、
さらに出家した「南禅寺」の270世住職となり、
事実上、官寺の頂点となる臨済宗五山派の最高位となったのが、わずか37歳でした。

とんでもないエリートです!!!

その頭のキレの良さを家康が放っておくわけはありません。

崇伝は主に徳川幕府において、「法律」の立案や整備に大きく携わりました。
禁中並公家諸法度きんちゅうならびくげしょはっと
天皇及び公家に対する関係を確立するための制定法
武家諸法度ぶけしょはっと
大名の統制のための法
・京都所司代
京都の治安維持の任務。幕末には会津藩を通して新選組があたった
・寺社奉行
寺社の領地・建物・僧侶・神官についての機関

などなど、ここに挙げただけでも、崇伝の実績はその後の徳川の礎となったことがわかります。

家康は絶大な信頼を寄せ、江戸城内にも金地院を建立させ、京都と江戸における崇伝の拠点となりました。

10万石の寺領まで与えたため「寺大名」とも言われたとか!


【黒幕要素】
「大坂の陣」の発端となった「方広寺鐘銘事件」の画策か?
「国家安康」は家康の文字を分断している、「君臣豊楽」で徳川を呪い豊臣家の繁栄を願う、などの難癖の発案者か?
(近年では疑問視されています。)


家康の死後の二人の対決

駿府城で生涯を閉じた家康の遺体を久能山に埋葬する際、家康の神号に関して、二人の意見が分かれました。

天海は天台神道ともいう山王一実さんのういちじつ神道の「権現」
崇伝は日本独自の神道における最高の神号「明神」

最終的に「明神」は敵対した豊臣の「豊臣大明神」と同じになるため験が悪く避けられ、天海の「権現」が採られて「東照大権現」となりました。

そもそも神号はやはり神職のお偉いさんが名付るべきで、仏門の僧侶が口出す領域ではないと思うのですが、これもまた「神仏習合」という日本人の大らかさが、それを許したのでしょうね💧



[妄想] さて、どっちが黒い?

天海と崇伝、彼らは家康にとって大きなネックであった大名、天皇家、朝廷との関りを有利にする外交にあたり、重要な役割を果たしました。

家康にとっては二人とも甲乙つけがたい大切な存在であり、ここでもこの二人を上手く使い分けていたことが伺えます。

思想や哲学を天海から学び、
現実的な法律を崇伝から学び、
双方の得意分野を家康は上手く引き出して採り上げたのかもしれません。

ただ二人の経緯を見て私が一番気になるのは、
天海は家康が病臥してまだ生存中に、次の秀忠へシフトチェンジした事です。

これってかなり見事な段取りの良さです。

この事だけで、天海の狡さがクローズアップされ、方や崇伝は実際に幕府内の実務を次々とこなしています。

なんだか図式としては崇伝に一切のややこしい仕事をさせておきながら、次の権力者に目標を定めて最後は良いとこ取りしたのが天海のように思えてしまします。

家康の神号も天海の事前根回しがあったのではないか?

言い過ぎかもしれないですが、天海もまたある意味、逆サイドから祟伝を上手く利用したのではないか?

私の勝手な妄想ですが、天海の方が実は黒かったと思うのです。


「黒衣の宰相」と言われた天海と崇伝。
彼らが徳川幕府の基礎を盤石にしたことは確かで、実際に二人が対立していたという史実はなく、後世に面白く作られた創作の可能性もあります。

しかし、当時の状況を想像すると、二人が意識し合っていた方が自然だと思います。


◇◇◇

今年の大河「どうする家康」では、今のところ崇伝役に田山涼成さんが決まりました。
天海役のキャストは未発表なので、もしかしたらこのまま登場しないのかもしれませんね。

この二人の対決も、なかなか面白いのですが、残念です。


↓↓宗派間や僧侶同士の対決を書いた過去記事です。

この記事の通り当てはめると、
エリートが崇伝、カリスマが天海で、かつての最澄と空海のように最初から混じりあえない水と油のような関係でお互いには強い敵意はなく、ただブレない生き方をしただけなのかもしれません。




【参考文献】
「黒衣の宰相」火坂雅志
「天海―徳川三代を支えた黒衣の宰相」中村晃

※トップ画像は「南禅寺塔頭金地院 明智門」photoAC


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