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波乱万丈すぎる六道人生

トップ画像出典:春夏秋冬アニメ

先ほど、録画しておいたアニメ「平家物語」最終話を観ました。
何度知っても、この平家一門の転落ぶりには悲哀があり過ぎる。

興奮の冷めないうちに、感想を記しておきたいと思います。


後白河法皇は作り過ぎ

まず、ラストシーンに違和感を感じました。
「平家物語」通りかもしれないですが、史実を丁寧に追うと、後白河法皇が建礼門院を見て涙ぐんだり、「寂光院」のご本尊「六万体地蔵菩薩」の前にへたり込んで手を合わすなんて、作り過ぎだと思いました。

だってもとはと言えば、後白河が原因でしょう?

彼の匙加減で平家は滅んだみたいなもので、
それを
「三種の神器だけ戻ればよかったものを。。。」と涙ぐむシーンには、ちょっと違うとツッコミたくなりました。

こらこらアンタのせいやから!と。


その後の南北朝時代・後醍醐天皇といい、野心を持つ天皇ほど周りを翻弄させて、タチの悪いものはない…


いつの時代も生き残った者勝ち

後白河法皇は、源氏と平氏の間をそれはもう巧みに渡り歩いて利用してきました。
自分の権力保持のために、法皇も平氏もお互いに利用し合って上り詰めてきたのですが、法皇と平氏の関係が悪化し始めた頃に、清盛の方が先に亡くなってしまいます。

もし、清盛がもっと長生きして、後白河法皇の方が先に崩御していたら?

平氏は滅亡していただろうか?

源氏は勝てただろうか?

幕末もそうですが、天下を左右するような動乱時に、誰がどれだけ生きるかによって、その後の歴史は大きく変わります。

いつの世も”生き残った者”が世の中を思いのままにできるものだと、あらためて思ってしまいました。



生きながら「六道」を見た徳子の生涯



「六道」
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道から成る、輪廻転生により巡る六つの世界の事をいいます。

平清盛の娘、徳子(建礼門院けんれいもんいん)の生涯は、生きながらにして「六道」を巡ったような波乱万丈なものでした。


高倉天皇に入内じゅだい

平氏の棟梁になって二年後、平清盛と正室・時子の間に生まれます。

さらなる権力を得るため天皇家と縁付きたい清盛にとって、天皇への入内じゅだいを見込める待望の女子でした。

父・清盛の念願通り、後白河天皇の皇子・高倉天皇の皇后となります。
徳子は17歳。
高倉天皇はなんと11歳。
徳子が6歳も上なのです。

なかなか徳子は懐妊しなかったとありますが、11歳だから仕方ないのでは?とも思いますが、舐めてはいけません。
すでに他所では内親王(皇女)をもうけていたのです。

入内から7年後に待望の皇子を授かり、その皇子がのちの安徳天皇となるのです。


不幸の始まり

后として、また実家も繫栄し、優雅で安泰かと思われた徳子の人生に暗雲が立ちはじめます。

実家の父・清盛は早く自分の孫を天皇にしたいあまりに、天皇の父である後白河法皇を幽閉するというクーデターを起こし、
これを受けて高倉天皇はわずか2歳の安徳に譲位して院政を開始します。

皇子誕生での喜びも束の間、あろうことか夫の高倉天皇が21歳の若さで崩御していまうのです。

次に実家の父・清盛が熱病であっけなく死亡し、
平家は坂を転がるように衰退してゆきます。


地獄を見る

追い詰められた平家一門は、壇ノ浦にて滅亡するのですが、
その時、徳子の母・時子(二位尼にいのあま)は三種の神器を携えて、孫の安徳天皇と共に入水してしまいます。

徳子もそれに続きますが、敵方(源氏)に熊手で髪を絡めとられて引き上げられ、死に切れませんでした。

それまで政治的な事を一切してこなかった徳子は赦免され、出家して建礼門院けんれいもんいんとなり京都大原の寂光院にて安徳天皇や平家一門を弔いながら終生過ごしたといいます。


生き残るのは死ぬより辛い

親や兄弟の死だけでなく、我が子の死まで目の当たりした徳子は死にきれず、これ以上ないほどの苦しみを一身に背負った余生は、どんなものだったのでしょう。

没年がはっきりしなのですが、一般的な説では1213年に58歳で生涯を閉じ、1185年の壇之浦の戦いから天寿をまっとうするまで、28年もの間、どのようにして苦しみを抑えてきたのかとその心中を察すると、死んでしまった方がマシだった事でしょう。

一門の権力保持に利用された事で、本来は味わう事のなかった苦難の人生でした。


淀君も不幸だったが…

例えば、後世の豊臣秀吉の側室となった淀君も不幸でした。

彼女は北近江を治める戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市との間に生まれた長女でした。

秀吉に、その生家を滅ぼされ父の長政を失い、落城
再び秀吉に、母のお市の再嫁先である柴田勝家も滅ぼされ落城

二度の落城の憂き目に遭い、しかもそれらの仇である秀吉に嫁ぎ、嫡子の秀頼を生みます。

これで人生は安泰のはずでしたが、そうはいきませんでした。

夫の秀吉の没後、徳川家康に攻め込まれ、親子共々自害して、また落城

彼女の人生は3度の落城を経験すという波乱万丈のもので、安定した人生をと望めば望むほど、どんどんかけ離れていきました。


ただし、平徳子と大きく違うのは、最期は最愛の息子と共に死ねた事です。



神となって彼女は救われたのか

死ぬことも許されなかった徳子は、一門の生き残りとして、地獄の日々が続いたのです。

徳子は没後、福岡の久留米を総本宮とし全国にある神社「水天宮」の祭神として、安徳天皇や二位尼と一緒に祀られています。

死後になってやっと、我が子と実母と共にいる事ができたのです。

天国から地獄へと真っ逆さまに落ちたような彼女の人生は、高貴な身分の中では日本史上最も不幸な女性かもしれません。


【平徳子が人生を振り返った言葉】

太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、都落ちし海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。
壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。
残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。
わたしはで昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。
『ここはどこでしょう』と尋ねると、
『竜宮城ですよ』と答えられました。
『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと
竜畜経に書かれています』と答えられました。
それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです

出典:Wikipedia(内容は要約しています)





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