奥河内の「紅葉」を訪ねたら「悠久の歴史」があった
昨日は自宅マンションが、大規模な電圧工事のため、終日停電でした。
家に居ても何もできないため、フリーWi-Fiの場所へ移動しようか?
とも思ったのですが、あまりにもお天気が良かったので、PC作業はスッパリ諦めて、「紅葉を見に出掛けよう」と思い立ちました。
車で1時間もかからない距離で行ける「奥河内」へと行ってみたのです。
今回は、おもいつきの企画なので、いつもの紀行サークル「レキジョークル」ではなく、たまたま休みだった主人と二人で行ってまいりました。
「天野山 金剛寺」は小さな高野山
とても立派な「桜門」に驚きました。
奈良時代に行基が開き、平安時代に弘法大師空海が修行したと伝えられ、1300年もの歴史を紡いできた名古刹なのです。
さらに5件の国宝と29件の重要文化財を有した日本の中でも重要な寺として挙げられています。
ここには一時は北朝と南朝が同時に御座所とされた珍しい経緯があり、今もその痕跡が大事に守られています。
(※画像は「金剛寺H.Pより」)
🍁女人高野といわれる聖地
弘法大師空海が拓いた真言密教の聖地「高野山」は弘仁7年(816)に開山以来1千2百年以上もの間女人禁制で、それが解除されたのは近世の明治後半になってからでした。
今ではおばちゃんでも大手を振って入山できてしまいますが、昔は男性しかその聖地の空気を味わう事はできなかったのです。
有吉佐和子先生の名著「紀ノ川」の冒頭文にギョッとさせられた事があります。
無知な私にとっては、「え?なぜ??」と、理解できなかったのです。
修行者を律するための「不邪淫戒」という訓戒を敷き、堕落を防いだといいます。
その間、祈りと安らぎを求める場として、女性たちも参拝できる真言宗の聖地としては、4つの寺院のみだったのです。
上記のセリフにある、和歌山県の「慈尊院」をはじめ、同県の「高野山 女人堂」、「室生寺」、そして今回訪れた「天野山 金剛寺」です。
特に、北朝エリアの庭園は素晴らしく、感嘆の声をあげずにはいられないほどでした。
北朝御座所である「奥殿」には、南北朝時代の光厳・光明・崇光の三上皇御の御座所となっていたらしく、煌びやかな御簾がかかり、格天井のある格式の高い座敷の設えられていました。
🍁まるでミニ高野山の伽藍エリア
「桜門」をくぐるとそこには、高野山の全山の伽藍が一つの空間にギュッと詰まったような感じでした。
ぐるりと見渡せるほどの範囲に収められていているのです。
2017年に修復されたばかりで、どれも鮮やかに彩られた状態ではあったのですが、ほとんどが平安時代の創建で、鐘楼だけが比較的新しくて、それでも南北朝時代のものなのです。
それらは、千年を超える年月の歴史を見てきたのだと思うと、なんとも身の引き締まる思いがしました。
御朱印はまぁ普通だったかな~。私の勝手な見立てランクは「並」。
🍁三英傑に愛されて維持してきた
南北朝時代は軍事的や経済的に、翻弄され続けましたが、室町~織豊期~徳川期にはその時の権力者と関係を深めていく事で、寺院の経営を安定させて維持してきました。
同時に寺院内の僧侶の手によって造られた「天野酒」は、現在の日本酒の元となったといわれるほどの名酒が作られ、これも時の権力者に愛され続けてきました。
北朝エリアの奥にある「宝物館」には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国の三英傑による書状が展示されていました。
織田信長が生活に困窮した公家たちの借金などを棒引きにする徳政令に金剛寺が違反したことで𠮟責の書状を受けています。
その後は、それに従うとともに「天野酒」を配下の武将たちに贈答しています。
豊臣秀吉の書状からは、羽柴時代に307石ほどの寺領を安堵されたものの、そこから300石を取り上げられて、また新たに300石を寄進されている事が伝えられています。
きっと、織田期と同じく、なにか違反を犯したのでしょう。
その後なぜ、また寄進されたのかはわかりませんが、秀吉が太政大臣となって豊臣性を名乗った時には「天野酒」を贈答したと記録されています。
徳川家康の書状は、軍勢の狼藉などの禁制に関しての書状や、関ケ原後の豊臣家の財力を削ぐ目的で数々の寺社の修復を依頼し、そのうち、四天王寺と同時期にこの金剛寺にも修復の書状が送られています。
豊臣が滅亡後、2代将軍・秀忠より307石の所領安堵の朱印状が送られ、その後、徳川幕政時代はその寺領は変わらず安堵されたのです。
下剋上が頻繁する戦国の世を、なかなかしたたかに潜ってきたのだな、と感じてしまいました。
庭にあった手水鉢に添えられた「つくばい」が竹で龍を模ったものだったのが、さりげなくおしゃれでした。
絶景の紅葉山を有する「延命寺」
「道の駅・奥河内くろまろの郷」で、昼食を済ませて、買い物をした後、「延命寺」へと向かいました。
こちらも弘法大師空海のゆかりの寺で、地蔵菩薩を自ら刻んで安置したのが起源と伝えられています。
樹齢1000年にもおよぶカエデの巨木は、美しく夕陽に映え「夕照もみじ」と呼ばれ、大阪府の天然記念物に指定されているのです。
また、寺内には「紅葉山」を有し、紅葉の名所としても有名なのです。
当初は「宝憧寺」という名でしたが、その後、廃寺になったものの、江戸時代に高僧・浄厳により「延命寺」として再建されました。
その浄厳の先祖は、その昔、泉(和泉市)の男鬼、ここ延命寺に住むその妻を、鬼退治したといいます。
あくまでも”伝説”なので、信憑性はなく、後付けのお話なのでしょうが、鬼とはいかなくても、何かこの土地のために戦ったご先祖がいたのでしょう。
その証拠として鬼退治?の時に使った弓矢が寺宝として伝えられているそうです。
「紅葉山」は、元々は薬草が多く自生していたため、「薬樹山」として親しまれていました。
今では「長野公園」一部として、春には桜、初夏にはアジサイや水練、秋には紅葉、冬には雪化粧し、大阪の屋根といわれる金剛山の麓に、長野、観心寺、河合寺、延命寺、天野山の5つのエリアからなる府営の公園となり、行楽地として親しまれています。
早速、紅葉山に登ってみましたが、これがまた”苦行”だった!
いや、以前訪ねた「千早城」ほどではなかったものの、大したことはないだろうとナメていたので、思わぬ労力を消費してしまいました。
そのかわり、素晴らしく色づく紅葉の景観に出会う事ができました。
十分な森林浴はもちろん、バードウォッチングやハイキングなどが楽しめるため、キャンプ場もあります。
近くには「関西サイクルスポーツセンター」もあって、私も息子たちが小さい頃は何度かい訪れた懐かしい思い出があります。
ただ、和歌山とは比較的近い地理でもあり、奥河内も弘法大師空海の影響を大きく受けているなと、あらためて思った一日でした。
今後、桜かアジサイの季節にも順次訪ねてみたいものです。
御朱印は、こちらも「並」かなぁ~。
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先週も嬉しいお祝いをいただきました。
ありがとうございました。
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