藤原氏の繁栄は不比等から始まった
をかしきことこそめでたけれ
by直秀
まひろと道長が月を見上げながら会話する中に、「直秀」の名が登場した時はハッとなって、この二人の様々な過去の出来事に思いを馳せてしまったのは私だけではないでしょう。
いかに二人が魂レベルで繋がっているかを強調されたような気がします。
さて、いよいよ「源氏物語」が誕生しました!
そして次週はまひろが宮中へ出仕し始めるようなので、この二人が長年培ってきた深い関係性がますますクローズアップされ、「紫式部」誕生も時間の問題です。
道長は嫡妻・倫子と明子との関係が冷え切っている最中、まひろが宮中に入るので、これは何か事が起こる予感しかしません。
そして、道長はまひろの娘・賢子が我が子だと確信する日はくるのでしょうか?
いよいよ面白くなってきました!
実際、「源氏物語」に関してはまだまだ不明なことが多く、どの「巻」から物語が始まったのかもわかっていないそうですが、従来通り「桐壺」から始まった事になっていました。
そして、やはり道長に依頼されたのがキッカケですが、それも強制ではなくあくまでも「お願い」というカタチでした。
道長は良い人で通すみたいやね💦
帝は献上されたまひろの物語を読みかけて閉じましたが、再び開いて読み始めるのは間違いありません。
公卿はほぼ藤原氏
大河「光る君へ」では、紫式部の人生にスポットを当てながら、どうしても当時の藤原氏の権勢ぶりを描かなくてはなりません。
実際、藤原性だらけでややこしいわ!
道長(柄本佑)を取り巻く、行成(渡辺大地)、斉信(金田哲)、公任(町田啓太)、実資(秋山竜次)も全て同じ藤原北家なのです。
そして、公任の屋敷にたまたま集まった斉信・実資・公任の関係について言うと、実資と公任は従兄弟同志、斉信のみおじいちゃん同志が兄弟という「はとこ」の間柄です。
また、斉信と道長は従兄弟同士で、彼らと行成は従兄子。
(いとこの子が従兄子だと初めて知りました!)
本来の本家筋は祖父の代で実頼筋の公任や実資なのに、いつの間にか弟の師輔筋の道長の系列が中心になり氏長者となったわけです。
そして、下級貴族とされる紫式部(吉高由里子)も上記の実頼・師輔兄弟の4代前の冬嗣から枝分かれした藤原北家なのですが、それぞれの身分の差は、同族同士の熾烈な権力争いの結果なのです。
彼ら藤原氏は全て藤原不比等という一人の人間から始まり、その後千年以上も隆盛が続くことになりました。
道長の抜け目のなさを見ると辣腕政治家であった不比等の血を最も受け継いだのかもしれません。
古代日本を作った藤原不比等
藤原不比等は659年(飛鳥時代)に現・明日香村で生まれました。
私の別シリーズで連載中の明日香村で生まれたことに感慨深さを感じます。
父はあの有名な「大化の改新」を中大兄皇子(天智天皇)とともに起こした日本史の重要人物、中臣鎌足であり、その功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の不比等の代に認められたのが藤原氏の始まりでした。
「日本書紀」によると「藤原」の記述が認められるのは天武天皇14年(685年)ですので、不比等が26歳の頃でした。
法律家から政治家へ
父を亡くした不比等は後ろ盾もないため下級役人からスタートしましたが、頭がキレて要領も良かったのか、ほどなく頭角をあらわし、朝廷内でも裁判をつかさどる判事として認められるようになります。
元々は法律家の彼が政治家としての手腕を見せたのは、天皇家との積極的な関りでした。
不比等は、持統~文武~元明~元正天皇に仕え、697年、娘の宮子を文武天皇へ入内させて后とすることで、天皇家の外戚として地盤固めの第一歩を踏み出します。
やがて娘が首皇子を生むと、あろうことか文武天皇は25歳で崩御してしまい、不比等はまだ7歳の首皇子を天皇にするために様々に悪知恵で画策するのです。
どういうわけか運良く娘が男児を産む。
孫を天皇にするために
孫である首皇子が成長するまでに、別系統の皇子が即位してしまうと、皇位継承がそちらに変わってしまいます。
そこで秘策として、文武天皇の母親・元明天皇の即位させます。
そこから、その娘(首皇子の伯母)の元正天皇に譲位させ、その時点で15歳となって元服していた首皇子を皇太子に据える事に成功しました。
この辺りは良く考えられた施策だったと思います。
当時、高齢だった元明天皇からの直接譲位だと、首皇子が皇太子時代に天皇が崩御してしまうと同系統の後ろ盾を失くしてしまい、天皇即位は実現しないかもしれない。
ならば36歳の元正天皇を間に入れることで首皇子の即位を万全にしようとしたのが伺えます。
元正天皇がこの時点でまだ独身だったのも、もしかしたらこれはあらかじめ考えられた筋書きだったのかも?
そう考えると、不比等のあまりにもぬかりない深謀遠慮に驚きを隠せません。
自分の孫である首皇子の系統を他所に変わる事なく維持できたことで不比等は、以後絶大な権力を持つことになりました。
この時に朝廷での権力を得たことで、その後千年以上の長きにわたって藤原氏の隆盛が続く事になるので、この判断や措置は藤原氏にとって大きな転機だったことは間違いありません。
やがて首皇子は45代・聖武天皇として即位し、不比等の野望は実現するのですが、彼はそれを見ることなくその4年前の720年に死没するのです。
主な功績
●「大宝律令」の制定
中国に倣った「律令国家」にするために、刑法である律と行政法である令で国を統治するために定められました。
●「平城京遷都」に尽力したのは作戦?
実は平城京遷都は、元明天皇時代にすでに行われていました。
この遷都には不比等の尽力というより、自分の思い通りの都に仕立てた様々な思惑が見えます。
①興福寺を目立つ位置に建立
現在でも奈良に存在する藤原氏ゆかりの「春日大社」と「興福寺」。
特に興福寺の方が藤原氏の氏寺として古く、669年に創建されていたものを710年の遷都とともに平城京に移されました。
その際に、メインストリートの朱雀大路のどこからでも見えるように東の高台に据え、権力を誇示したとみられています。
②古来の豪族から離れる
従来の明日香村の「藤原京」では古来の豪族たちの力が強く、それらから独立した都にする事で首皇子の即位時に、政治のやりやすい環境を整えたかった?
③自分の屋敷を首皇子邸宅の隣に
皇子の邸宅と自分の屋敷との間に門を据え、簡単に行き来ができるようにしていた。
何としてでも孫を守り抜き、教育し、いかに皇位につけることに全身全霊を傾けていたかがわかります。
藤原氏の躍進は続くが…
ここで最初の系図をもう一度。
不比等の4人の息子たち武智麻呂・房前・宇合・麻呂は、藤原四家として南・北・式・京家となり隆盛を極めますが、今度は朝廷内で藤原氏同志での熾烈な争いが勃発し、やがてそのうちの北家が頭角を現して、道長の嫡流である「御堂流」が他の藤原とは格段の差をつけた地位を得て絶頂期を迎えます。
藤原氏衰退のきっかけ
道長もその父・兼家も初代の不比等を踏襲しているかのような深謀遠慮ぶりで、天皇に娘を入内させて常に外戚関係を保ちながら絶頂期を迎えた藤原氏ですが、その子たちの代になると急速に力を失くしてゆくのです。
その主な原因は次の3つだと言われています。
①道長の長男・頼道と5男・教通の兄弟喧嘩により藤原氏が2分化して力も半減した。
②後冷泉天皇に頼通の娘(寛子)と教通の娘(歓子)がともに入内するも、跡取を残せず、外戚ではなくなった。
道長の代まで入内させた娘が都合よく皇子を産んでくれたが、
その運も尽きたか?
③荘園整理令により、外戚ではなくなった藤原氏にも税を徴収されたため。
(それまでは天皇の外戚だったので優遇され無税だった)
院政の始まりと武家政権
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて天皇を退いても政治を台頭する院政が始まります。
また、平清盛の出現により武士が朝廷内で力を持ち始め、徐々にその力が増大してゆき、やがては源頼朝により幕府が樹立されると完全に武家政権が中心になりました。
後世の藤原氏衰退の大きな原因は、
「院政の始まり」と「武家政権」の樹立だと言えます
ここでふと「院政」のはじまりは道長だったではないかと思ってしまいます。
というのも実は、道長は引退後も嫡男・頼通の後ろ盾として「大殿」として実権を保持し絶大な影響力を持ち続けるからです。
藤原氏の力が弱まった後、政治の実権が天皇へ戻ると、白河天皇~鳥羽天皇 ~後白河天皇が譲位後も上皇となり、政務を執る院政が約100年も続くことになるのですが、その先駆がけは道長だったのかもしれません。
因果応報という事でしょうか。
道長が息子のために良かれとして行った政策が、すっかり取って変わられ、家の衰退につながるとは皮肉です。
しかし、武力を持たない藤原氏が千年以上も知略だけで摂関政治を維持できたのは、時代が良かったとはいえ、すごい事です。
絶頂のピークに上り詰めたら、あとは下がるしかないのが世の常。
世の中は常に移り変わりの連続で、諸行無常という事ですね。
【参考サイト】
・祈りの回廊 藤原不比等
・いかす・なら
・刀剣ワールド
・家樹
この記事が参加している募集
サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。