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v_7 五歳児が突然ルワンダに住むことに 多様性の話

このエントリは、Voicyチャンネル 自分の人生を生きよう!by CK にて2021年10月14日に配信された「#0007 5歳児が突然ルワンダに住むことに 多様性の話」を文章化しています。音声も是非、こちら↑のリンクからチェックしてみてください♪

昨日は、ワクチンの副反応で頭痛と風邪っぽい症状が出ましたが、今日はそんな症状もありません。でも朝からなんだかすっごく眠たいんです。これも副反応なのでしょうか。

というわけで、前回の続きです。前回は、「5歳児が突然ルワンダに住むことになった話、英語編」ということでお話しました。 
移住してよかった面が二つあって、一つは英語で、もう一つはダイバーシティです。今日はこの二つ目の「ダイバーシティ、みんな違って当たり前」という環境に身を置けたことがとても良かった、という話をしたいと思います。

まず学校の環境ですが、昨日もお伝えした通り、息子はルワンダ人の富裕層が行く学校に通いました。クラスという単位は、小学生にとっては(最初はまだ幼稚園でしたが)、 自分の世界のかなり大きな要素だと思いますが、そこではダイバーシティ以前に、まず息子は圧倒的なマイノリティーなわけです。 
学校には、ルワンダ人の富裕層、あとはケニアの人、ウガンダの人、たまに西アフリカ系の方もいました。いわゆる肌の色が違う欧米人やアジア人は、大体全体の2割ぐらい。 ですが、クラス編成によっては、クラスの中に一人ということもあったんですよね。息子が「僕だけクラスで肌の色が違うんだよ」って、何度も言ってたんですけど、でも私は「全体的に2割は欧米人・アジア人だから、一人ってことはないよ〜」なんて受け答えをしていました。でも、できたクラス写真を見て、ビックリ。「あ、本当に肌の色が違うの、息子一人だ。 ごめん」っていうことがありました。

こちらがそのクラス写真

クラスのみんなは仲良くしてくれますが、例えば髪の毛のことを一番言われてましたかね。アフリカの方って、基本的に髪の毛がちぢれている方が多いんですが、 息子は直毛。「どうやったらそんな髪の毛になるの?」とよく聞かれていました。「生まれつきこうだよ」と言っても、「いや、そんなはずないでしょう」といった感じで、悪気はまったくないんですけど。 物珍しくて頻繁に触られたりもしていましたね。

例えば街中だと、アジア人が歩いてると、(ルワンダでは、ほぼアジア人=中国人。その中国人がアフリカ大陸でめちゃくちゃ台頭してる話もどこかできれば)「ニイハオ、ニイハオ」と言われることが多いですよね。または、少しからかったように、中国語の発音を真似て中国語らしきものを喋っているふうのことを言ってきたりとか、 ありますね。
あとは、ムスングという言葉があるんですが、これはアフリカ系以外の人種のことを指します。日本語でいうニュアンスとしては「ガイジン」みたいな感じですかね。「ムスング、ムスング」って指をさされるとか、 そういうことは日常茶飯事であります。 

マイノリティーになる経験というのは、なかなか人生経験としては貴重なんじゃないかなと。嫌な思いもしたかもしれないし、それで逆に得したこともあったかもしれないし、彼の中でいろいろ感じるところがあったかなと思います。
ちなみにこのマイノリティーは、マイノリティーでも、結構ちやほやされる系のマイノリティーだったというのは、ひとつポイントかなと思ってます。これもまたどこかでお話しますね。

ルワンダに住む外国人コミュニティーもあります。ここはヨーロッパ各国やアジア各国(アジアは韓国の方が多いですかね。中国の方も国にいる数は多いですが、中国の方は中国人同士で固まってることが多いので、ワールドワイドで集まる場には、アジア人っだとやはり韓国の方が多かったり) あとは南北アメリカの方とか、いろんな国の方々が集まるので、肌の色も違うし、髪の毛も、それぞれ色も形も違うし、見てくれがまず全然違う。
日本では、Voicyの第2回の放送でもお話しした通り、同一民族・同一言語、基本は髪の毛も黒いですよね、多少の差はあれ。肌も、多少の差はあれ、基本的にはこういう色ですよね。みんなそうなので、それがマジョリティーに自然となって、そうすると、そこから外れると、すぐに異端というふうになっちゃう環境だと思うんです。 

でも、このルワンダ在住外国人コミュニティーみたいに、みんな違うのが前提だと、これが基本ですというのができにくいんですよ。 なので、例えば標準的な5歳児はこうで、そことの差分とか乖離、「みんなはこうなのに僕だけこう」「僕だけこうじゃない」とか、「大体の人はこうなのにあの子は違う」とか、そういう差分とか乖離をいちいち意識させられるようなことが少ないんですよね。みんな違うから。そうすると、のびのびいられるというのはあると思います。

赤いTシャツが息子

息子の場合、英語が完璧じゃないってことについても、家族のかたちについても、本当にさまざまですから、自分はお母さんと2人の家庭だというのも、別に何の違和感もない。「なんか僕だけ違う」みたいなのがないんですよね。
日本だと、基本的には血のつながっている実のお父さんお母さんと子どもで家族、という単位が基本ですよね。
でも、ルワンダとか、ルワンダに住む外国人コミュニティーだと本当にいろいろで、シングル家庭は肌感覚としても多かったし、アメリカ人家庭がルワンダ人を養子にしてるご家庭とかも全然珍しくないんです。私の知っている家庭だと、多くのパターンは自身の子どもがいて、そこにルワンダ人の子どもを引き取る形。なので、兄弟で肌の色が違うというようなこともあるんですよね、家庭内で
例えば、前の結婚でもうけた子どもがいて、次の結婚で違う大陸の方と結婚してまた子どもをもうけて、兄弟で肌の色が違うとか、髪の毛の形が全然違うとかも、特に珍しくないわけです。

ルワンダも、家族のかたちが日本の典型的な家族とは違って、どちらかというと一族という感覚に近いんですよね。おじさんやおばさんと一緒に住んでいたり、いとこのことをブラザーやシスターと呼ぶことも普通です。
これは、家族というのは親、子どもだけじゃなくて一族全体だよという価値観もあると思いますし、ルワンダでは94年に虐殺があったので、孤児になって引き取られたとか、そういう背景もあるかもしれませんが、日本の一般的な家庭のカタチとはけっこう違う。

私のパートナーはスペインの人なんですが、(ちなみに彼はいつも仕事で世界を転々としていて、一緒にいたり、いなかったりします)例えば彼が息子の学校の迎えに来たりしても、「え?」みたいにならないんですよ。 日本だったら、明らかに純ジャパニーズの息子のお迎えにいきなり外国人が来たら、「えぇっ!?」ってなったりしますが、そういうことがルワンダではごく自然なんです。
「あ、お母さんの次のパートナーかな」みたいな。そんなふうにすら、いちいち思わないかもしれません。
息子は、 本人はエナリくんみたいな風貌ですが、妹は髪の毛がくりんくりんで、だいぶ明るい金髪に近い色で。なのでまったく似ていませんが、それも別にいちいち通りすがりで「あれ?」みたいな目で見られません。
でも日本だと、基本的にはみんな日本人で、兄弟間で人種が一緒という前提なので、すれ違ったときに「あれ?今の光景は何だろう」って、特に悪気はなくても、自分のデータベースと一致しない、というふうになるのかなと思います。

多様性の中にいるときは、違うのが当たり前なので、多様性の恩恵を実感する機会は、あんまりありません。でも、みんな違って当たり前の環境で育つと、自分と違うという人に対する耐性がつくというか、寛容でいられるのはありますね。お友達の家に遊びに行ったら食事の前にみんなでお祈りをする家庭もあれば、クラスにはラマダンの時期に給食を食べないお友達もいる、というような、宗教も言葉も外見もみんなそれぞれなんだな、という前提で暮らせるわけですね。

というわけで、まとめると、多様性のある環境にいると、自分がのびのびいられるというのはいいところですね。周りとの違いをいちいち気にしなくていい。だって違うのが前提だから。
もうひとつのいいところは、相手の、自分と違う部分に寛容でいられるっていうのもあると思います。これは、今後彼が成長していく上で大きいと思います。
やっぱり人間どうしても、知らないとか、自分が見たことないとか経験したことないとか、自分と違う、自分が属するグループのみんなと違うっていうことには、どうしても多かれ少なかれ抵抗を持つものだと思うんですよね。きっと本能として。でも、多様性の豊かな環境に慣れていくと、「僕はそうじゃないけどあなたはそうなんだね」、「自分はそういうことはしないけど、あなたはそういうことをする必要があるんだね」ということが感覚でわかるようになる

次回は、ルワンダに移住したことの5歳児的デメリットは?をお話しします。

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