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【臨床と宗教】 第3回 医療からこぼれ落ちるもの

前回まで
もともと関心の低かった日本人の宗教事情があるなかで,1990年代に起きた大震災と宗教的事件は日本の宗教の在り方に大きな影響を与えました.宗教,とくに仏教が葬式や死のイメージと結び付けられることもあって,宗教者が医療現場に入るには難しさがありましたが,東日本大震災を潮目に宗教を再評価する土壌もできつつあります.いろいろな課題もあるなかで,宗教者は医療現場で何ができるのでしょうか?

成果を求めるアプローチの限界


 一般的な質問になってしまいますが,いま科学の進歩が目覚ましいなか,宗教の力はこれからどんどん弱まってしまうのか,それともテクノロジーの時代だからこそ宗教観がすごく大事になってくるのか,森田先生はどう考えていますか.

森田
 いまはロボットがお経を唱えて,ご法話もできる時代になってきていますから,テクノロジーの波は宗教界にも押し寄せていますね.ともすれば社会のなかでは利便性,効率性がものすごく追求されています.結果,成果,効果というアウトプットがすべて,という形でプロセスを飛ばして結果がよければ,終わりがよければというようになっている怖さがあります.


 医療においてもよりよい治療法や薬ができて,より健康で寿命を長くできるようにという成果を追求していますね.

森田
 たしかに結果や効率性を重視すると白黒もはっきりします.それが明らかになっているほうがスピード感をもって次のステップに移ることができるのだと思います.そのなかで宗教はつかみ所がないところで,なんとなく非効率な部分があったりというのが世間的な見られ方としてはあるのではないかなと思います.つかみ所がない,非効率,私自身はアナログ的という表現を使っています.

 こういう時代だからこそと言うつもりはないです.過去にもそういう時代がたくさんあって,その時代のなかでも宗教は大切にされていたし,そうでなければならなかったと思います.先ほどお話ししたように白黒の世界,イチゼロの世界,成果・効果・結果はどちらかというとデジタル的な感じのアプローチではないかと思っています.

 病院で勤めているときに「デジタル的なアプローチでないとここの世界は回らないんだな.それはそうだ」と思っていました.患者さんがいらっしゃって,「治療はちょっと待ってくださいね」と言ってアナログなアプローチをして,非効率に紆余曲折を経て,結果「わかりません」では話にならないと思います.すぐ結果が出て,その効果的な治療にどうアプローチしていくかという検討にすぐ入らないと現場は回らないのだろうと思っていました.しかし,これで目の前の患者さんやご家族が全部すっきりされているのかというと,実はそうではありません.デジタル的なアプローチの網の目からこぼれ落ちるものがあるからです.

 それが如実に出ているのが死です.死に対しては何も答えが見出せない.デジタル的なアプローチをしている医療の中では死というカテゴリーを持っていない,それは医療の範疇にないということになります.


 たしかにこれまで医師は「死」自体にどう対処すればよいかということについてはほとんど学ぶ機会がなかったと思います.医療従事者のなかでもどこかにデジタル的なアプローチの限界を感じていて,模索するなかで最近のスピリチュアルケアへの関心につながってきているのかもしれませんね.

宗教に何ができるか

森田
 ターミナルケアの現場に患者さんとしていらっしゃる方々は,そんなに長くないタイミングで死を迎えなければいけない感じになります.それにまつわるものが占める割合は大きくなっていく.だからデジタル的なアプローチ
において,網の目からこぼれ落ちる量は死に向かっていけばいくほど多くなっていきます.


 終末期医療となると,おっしゃるように寿命を伸ばすことを最優先に目指してきた医療の限界を色濃く感じてしまう側面がありますね.

森田
 こぼれ落ちてしまうものに関して,「森田は宗教者だから,その答えをしっかり持っていたんだね」と言われることもありますが,私はただ一緒に悩むことしかできなかったです.宗教が解決すると言うつもりはないです.ただ,解決方法のなかの1つの方略として,共に居させていただくことはできます.一方でその方が宗教者を介して感じられるところまでしか宗教はいけないと思っています.というのは,自分たち宗教者は神仏という超越した存在ではなく,私たちも命を授けられた者だからです.そのような存在がかかわるうえではここが限界です.仮にそれがもっといけますとなると怪しい世界であったり,悪影響が及ぼされたりする形になるのでしょう.


 宗教の力には限界もある,しかし医療からこぼれ落ちてしまうものをすくいあげることができるというのは臨床宗教師の方が医療チームに入っていく大きな意義になりそうですね.

森田
 はい,われわれを宗教者の働きとして利用していただけるような,資源として活用いただけるような存在として捉えていただくとよいのではないかと思います.ただ,網の目からこぼれ落ちた量のすべてをすくい取ることは到底できません.すくい取れるかどうかは少し置いておき,網の目からこぼれ落ちたものを私は確認できていますとお伝えすることはできるのではないかと思っています.そこに宗教が生かされる,宗教の力をそれぞれの形で咀嚼していただくというのでよいと思います.そしてそこにつなげるためには,医療者の方から紹介される場面が必要になってくると思います.

 宗教は限られた方だけのものではありません.ちょっと仏教的になって恐縮ですが,生きているときは思い通りにならない,どう整理してよいかわからないことがたくさんあります.それは仏教のなかでは「苦」と表現されますが,自分のなかで,揺さぶられるような状況がたくさんあるのではないかと思います.だから終末期に限らず,揺さぶられる状況のなかでさまざまな出来事が起こっていて,人間が生きていくとはそういうことなのだ,そこには宗教というものを生かしていただくようなタイミングがいくつもあるということを広く知っていただきたいです.そういうことは社会のなかでそれほど強く紹介されていないと思います.しかし,人間が生きている現代社会においてよく見ると,「苦」と呼ばれるドロドロしている場面は多いです.

 いまはイチゼロの世界で,知っているものについては深められています.でも,知らないものは自分たちの検索ワードには引っ掛かってこないので,まったくそぎ落とされてしまうという弊害が生じていると思っています.知ることは追求されます.そこには技術も投入されるのでどんどん進んでいきますが,そぎ落とされていくもののなかに宗教が入っているのではないか.あるいは間もなく入っていくのではないか.そういう傾向を私はものすごく懸念し,危機意識をもっています.

 こういう時代だからこそ宗教を引き合いに出してくださるような機会,それは集合体でもいいですし,個人的でもいいので,そういう機会がどこかの検索ワードに引っ掛かるような状況で高め合っていくことをしないと,死をはじめとした“デジタル”の一辺倒ではすまされない出来事に直面したときに,対処できなくなるということになるのではないかと思っています.


 なるほど.現代社会が知り得ないものや見えないものを無視しがちだというのは,「冥」の世界の重要性ということともつながってくると思います.仏教学者の末木文美士さんの文章で読んだのですが,鎌倉時代の慈円が著した歴史書『愚管抄』では,われわれにとって見えないものである「冥」の世界,つまり神仏や霊といったものですね,これが私たちの社会や歴史に大きな影響を与えているという世界観で書かれているということでした 1) .私たちが死について考えるとき,あるいは知り得るものの向こう側を考えるとき,この「冥」の思想はヒントになるような気もしています.

 また,宗教にふれずにどうやって死に向き合うかということは,新渡戸稲造がアメリカ人と話していて,宗教がなくてどうやって倫理教育できるのですかと聞かれて,「日本にも倫理教育はある」と.それで『武士道』を書いたという話がありますが,たしかにいまの時代は死にどうやって向き合うかはすっぽりと抜け落ちている気がします.学校での道徳の教育がどうなっているのかというのもありますが,これからの時代の重要なテーマであると思っています.

参考文献
1) 末木文美士:終末論と希望.コロナ後の世界を生きる ─私たちの提言,村上陽一郎(編),岩波書店,東京,2020.

第4回へ続く)

※本内容は「治療」2021年4月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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