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【臨床と宗教】 第2回 現代の宗教観と 臨床宗教師のあり方

前回まで
東日本大震災をきっかけに宗派・宗教を超えて結集しスタートした日本臨床宗教師会.認定臨床宗教師の制度もでき,養成が進められています.今後広まっていくうえでの課題はどういったものがあるのでしょうか? 前回触れられた「日本の特殊な宗教事情」から紐解いていきます.

日本人の宗教観


 現在,島薗 進先生が日本臨床宗教師会の会長なのですね.僕も島薗先生の『現代宗教とスピリチュアリティ』(弘文堂)を読ませていただきました.大学の大先輩でもあります.島薗先生は最初,東京大学の理科三類に入られ
たのですが,医学部に進まずに文学部に進まれたんですよね.医者の家系で医師になることを期待されましたが,いやだと言って死生学の教授になったという方です.

森田
 文学部所属とは存じ上げていましたけれども,そうだったんですね.


 森田先生がちょっと言われた「日本の特殊な宗教事情」ですが,どの辺が特殊なのか,改めてお伺いできますか.

森田
 1995 年に阪神・淡路大震災があり,そのあとに「心のケア」という言葉が少しずつ出始めました.当時も東日本大震災後のときのように,組織を作るには至らなかったものの,宗教者たちが被災者に向けて活動する動きがありました.しかし,阪神・淡路大震災の何ヵ月かあとに宗教的な大きな事件が起こったのはよくご存じだと思います.宗教に対して,社会的な悪とまでは言いませんが,怖さが植えつけられたところがあり,敬遠される,避けられる,あるいは怖い,自分が巻き込まれるのではないか.そういうイメージにつながっていった側面がありました.


 僕が学生だった20年ぐらい前からすると,最近はマインドフルネスや瞑想が普及してきたな,イメージが変わってきたなというのがありますが,90年代は例の事件の影響で,瞑想と言うだけで悪いイメージになってしまっていたように思います.今は3.11のあとということもあって,大分変わってきているのかなと思っています.

森田
 日本の中の宗教は,もちろんいろいろな出来事がありあらゆる変化が生じていると思いますが,根底には1995年の大きなインパクトが強くあると思います.それまでの日本の中の宗教観というものは,無宗教であることを公言したり,特定の教団に所属していても個人的な信仰レベルにはあまりつながっていなかったりと,あまり関心を持たれてはいませんでした.自分の宗教に対する考えや思いを聞かせてくださいと言っても「いやいや,あんまり」とか「そんなとくには……」という形になっていく,そういうところがもともと根底にあったと思いますが,それに輪をかけて宗教に対する怖さを生じさせてしまった.社会的な出来事があったあとのイメージと日本的な形の無宗教が表出することと相まって,日本人の独特な宗教観みたいなものがつくり出されたのかと思われます.


 たしかに日本人の多くは冠婚葬祭のときぐらいしか宗教を意識しないかもしれませんね.

森田
 はい,仏教に対してはとくに死に直結するイメージが持たれていると思います.私は病院で勤務させていただいた際に強烈に体験しましたけれども,お坊さんは亡くなってから登場するものだ,葬儀,法事等でお見かけするが,元気なとき,あるいは生を全うするときにはなかなか登場してこないのだと,お坊さんの登場機会を亡くなったあとに限定してしまうという風潮があります.これは仏教者,僧侶の問題であるかもしれません.生死の中の生きることにもスポットを当てなければいけなかったのに,なんとなく葬式仏教と揶揄されるような風潮がつくりだされて,儀礼的なものを中心に執り行われてきた.もちろんそこでしっかりと説かれてはいるけれども,インパクトとしては死とお坊さん,死と仏教がつながる.だからお寺はネガティブな
イメージ,縁起の悪いところだということになって,病院の中ではかなり奇異な目で見られているという印象がありました.

 10年の病棟勤務を経て,そうではないなと思ってきたからこそあえて強くお伝えできるのは,社会的なイメージに皆さんがかなり強く影響を受けているということです.お坊さんがちょっとしんどい方の心のケアに活躍して
いることは大々的に取り上げられているわけではなかったのですが,地道に活動することで新しいイメージをもっていただいて,患者さん,そしてそのご家族の私を見る目も入院当初より変わってきたように感じておりました.


 おっしゃることはよくわかります.今まで実際にはそういうことはなかったのですが,病院の中に臨床宗教師のような方がいて私が患者さんに紹介しようとするときに,告知されていない患者さんだった場合,希望を奪ってしまうことにつながるのではないかという難しさがあります.少し前までは緩和ケアという分野自体,そういうイメージがあったと言われています.緩和ケア医が関わると自分はもう死んでしまうのか,望みはないのかというように捉えられるみたいな.この10数年ぐらいで緩和ケアに対するイメージが一変したと思いますが,臨床へ宗教を取り込んでいくにはそういう難しさがあると感じました.

臨床宗教師のこれからの課題


 2011年の3.11で日本人の宗教観,死生観はまた転換点を迎えたように思います.今後,臨床宗教師は病院など医療機関でどういうふうになってほしいというイメージはありますか?

森田:臨床宗教師という立場,肩書,存在が定着していくのはすごくありがたいことだと思っています.臨床宗教師が手っ取り早く定着するには臨床宗教師に診療報酬を付けることを厚生労働省に認めてもらうということ.簡単にいくものではないというお叱りをいただくことになるとは思いますが…….そしてそこが整備されたとしても,宗教者の質の担保の問題がありますね.ずっと研鑽を積んでいかなければなりません.

 臨床宗教師の研修は2012年から始まりました.研修を終えた方にはフォローアップという形で研鑽が課せられていて,継続して修練を積んでいくこととなります.そういった状況になって,私が現場の先生に尋ねられたことがあります.「森田さん,臨床宗教師の研修を終えて認定臨床宗教師という肩書になりますが,すぐ現場に出ていいという方はどれぐらいいらっしゃるか.認定を受けた方全員を現場に出せますか?」と言われて,私はすごく戸惑いました.同時にためらいが生じました.「認定」と頭につくのは,たとえば認定看護師さんとなると専門的な勉強をしておられる方です.認定臨床宗教師はそういう位置づけの認定なのか.研修をパスした,修了したという位置づけのほうが強くないかということで葛藤した経験があります.

 私が肌で感じたことでいうと,研修を終えた方であっても臨床宗教師としての存在を自分の中でマネジメントできる方でないと現場に入るのは難しいと思います.セルフケアも大丈夫,周りの空気感もしっかり読める,空気の流れをキャッチしてケアにかかわることができる,研修を終えただけでそう太鼓判を押せるかというとなかなか難しい.だから,現場の方にお伝えしたいのは温かく見守っていただきたいということです.現場へ臨床宗教師が入っていったときに切磋琢磨する形ではなくて淘汰されてしまうとどうしようもないので,どうか前向きなフィードバックをいただいて,医療と宗教がうまく連携をとることが可能になるならば,それが認められていく1つの道筋になっていくのだと思います.


臨床宗教師の方もケアチームの一員として連携していけるようになっていくのが望ましいということですね.

森田
チャプレン,ビハーラ僧,スピリチュアルケアワーカーという名称で宗教者が入っている現場はたくさんあります.だから,あえて臨床宗教師という肩書を“通行手形”にしてよいかどうか.それぞれの施設の“通行”を可能にするような形の“手形”にしていいかどうかは検討の余地があるのではないかと思います.これまでも宗教者が現場にかかわっていたわけです.そこへ,つまり今までの担保された関係性を崩してまで入っていこうとは思いません.今までかかわってきて,そこでもう根を張っているところはそのまま続けるこ
と,あわせて臨床宗教師の動きが広がるような形を模索していくことも大切だと思います.


臨床宗教師であるかどうかよりも,心のケアを担当する宗教者の方がより多くケアチームの輪に入っていくことが重要ということですね.

寄り添う相手 理想と現実問題

森田
 本音を言えば,もともと地域の方々がすごく関わりを持っている神社,寺院,教会は自教団のホームグランドとして,そこに信者さんがいらっしゃいます.たとえば信者の方が医療現場にお世話になったとき,これまでの縁で宗教者が呼ばれるような形になればいいのではないかと考えています.病院側なり現場なりが改めて用意することなく,それぞれの利用者さんから呼ばれるような宗教者との関係性があってもいいのではないか,私はそれが一番自然な形だと思っています.

 私が病院の中でかかわらせていただいたときの話です.私は大阪出身で新潟県長岡市にポーンと入っていったわけです.まったく違う地域の宗教者が入っていきます.そこではビハーラ僧という形で紹介されて,初対面でそこから関わりを持たせていただくのですが,私一人ではできません.地元のお坊さんの有志がボランティアのビハーラ僧として来てくださっていて協力体制をとってくださった.だからやってこられたわけです.

 ボランティアビハーラ僧の檀家さんの患者さんもいらっしゃるわけです.そのかかわりの様子を拝見していると,ものすごく自然な形でした.それは当たり前です.何代にもわたってお寺との関係がある.家庭のこともいろいろわかっている.家族構成もわかっている.ご本人のこともよくご存じだった.やはり私なんかに見せる顔よりも,ご住職であるボランティアビハーラ僧に見せる顔のほうがこの方の素の顔なのだろうと感じました.なかには私にも素を見せてくださる方もいらっしゃいましたが,関係を構築するまでにはお互いの時間とエネルギーが必要になってきます.その方の心のケアとか,その方の存在を揺るがすものとか,生きている意味とは何かとか,そういうところに迫っていこうとするとき,ゼロから出会って「はじめまして」のご挨拶から入っていくよりも,元気なとき,病院や施設にお世話になる前から関わりを持った密な関係から入っていくほうが有効で,それこそが宗教者には求められています.


 普段から関係を築いてきたからこそ,いざというときにも頼ってもらえるというのはわれわれ家庭医と通じるところがありますね.施設側としては宗教者が活動されることについて,利用者が希望した場合は了承されるものなのでしょうか?

森田
 私はいくつかの施設でお話を聞かせていただきましたが,施設を利用される方の訴えは無下には断らないようです.宗教者と個人的な関係を持っている利用者さんの訴えは通ります.縁がある宗教者をその施設にお呼びになることを許可してくださるだけで,医療と宗教は連携をとっていけるのではないかと思っています.本音ではそれが自然でいいなと思っていますが,これを宗教者に言うと実際はそこまで余裕がない,医療機関や施設に行くのは抵抗があるという声も返ってきます.そこが本質的なところかもしれませんが,生きているうち,元気なうちから関わるという,人と人との取り組みができていなかったと言うつもりはないですが,十分でなかったがゆえに宗教者側にも抗う姿勢が見られるのではないかと思っているところもあります.

 一方で利用される患者さんやご家族の都合としては宗教に対する見方が希薄になっていて,無宗教であるとか,自分は全然信仰を持っていないという方は,世代が若くなればなるほど多くなっているというのは自他ともに認めるところではないかと思っています.その方々が(宗教的な)縁のある人を呼んでもよいですよと誰かに言われたところで,(宗教的な)縁のある人はいませんと言われるでしょう.

 先ほどは地域の密な関係を活かしていったほうがとも言いましたが,こういう流れを見ていくと,臨床宗教師という流れ,つまり施設側のチームアプローチの中に宗教的な部分を触れられるよう組み込んでいくほうが自然だという時代を迎えるかもしれません.そのあたりをわれわれや医療従事者の方々がどう捉えていくか,今後の流れがどうなっていくかによって違ってくるのかなと思っています.

第3回へ続く)

※本内容は「治療」2021年3月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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