『saṃsāra(サンサーラ)』14
14 桃
あの部屋はいつの間にか跡形もなく消えている。
あの大きな男の影も、盤面のように配置された黒い影や透明の結晶たちもいつの間にかもう、そこには誰もいなくて。
気が付けば、いつの間にか何もなくて。
私の半紙を掲げられた後、あの鐘の後、きれいさっぱり消えてなくなった。
と言うより、そこには初めから何も無いようで、何かがあったような。畳の青い匂いだけをそこに残している。
そして気が付けば私たちはあのカメが掘った穴の前。空には大きな蝶で出来たガラスの橋。幾分場所は変わったように思えるけれど。でもそれらは、やっぱりそこにあった。
そしてそのガラスの橋は、粉々に壊れていく。
「鐘の振動で、割れてしまったようですね、7回目までよく耐えたもんだけれど。もうさすがに無理だったのね」娘は、ぼそりとつぶやいた。
空からガラスの破片が降ってくる。
おびただしい量の破片。
きらびやかな空。
その破片を次から次へと、あのクジラ達がパクリパクリ。
クジラの背中の穴から噴き出す虹の中に、あの蝶たち少しずつが混じりだす。
白と黒の世界に、蝶は色を付けていく。
色が重なっていく。
色とりどりの蝶。
私たちはそれを眺めている。うっすらと桃の匂いが漂ってくる。
「さあ行きましょう。あと少しです」娘の声に我に返る。
「旦那様。さあ」
私もそう感じていた。
もう幾分もない旅。そろそろ終わりの時がやってくる。
犬はいつの間にか衰えている様子だった。足を上げて進むのもおっくうそうに。というより、あげるのに苦労している様子だった。ひょこりひょこり。犬の足取りは以前に比べるとかなり重たそうで、前に進むのも不自由そうだった。
「なぁ、お前さん。大丈夫かい」犬に言うと娘が答える。
「この犬もそろそろだね」
「旦那様。私もそろそろかもしれません」犬も同じように答える。
ガラスの橋は、どんどん壊れていく。端から真ん中から、私たちがそこに居るのもお構いなしに。犬の事なぞお構いなしに。
破片は蝶に、クジラにと。虹の輝きの中に蝶ははためく。夢の中にいるかのよう桃の香りの真ん中で。
ポケットの中の切符が歌いだす。
桃の香りを吸い込んできれいな声で歌いだす。
私たちは、その声に聞きほれながら進んでいく。あといくらかの旅をかみしめるように
私はそっと風に切符を渡す。切符は喜んで風を駆け上がる。次の持ち主へと飛んでいく。また必要な者がいるはずだ。
ひとまずストックがなくなりましたので これにて少しお休みいたします。 また書き貯まったら帰ってきます。 ぜひ他の物語も読んでもらえると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 わんわん