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メモ帳供養 その十七「老人の特権」

こんばんは、魚亭ペン太でございます。

人生が無鉄砲な性格故に激動を迎えそうなのですが、不安というものが人間を掻き立てるのかもしれません。なんだか常にアドレナリンが出ているような感覚です。

引き続きメモ帳供養その十七。お付き合いいただけたらと思います。

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この小男の名前はルブノン。彼は鞄から自らの作品を取り出し、テーブルの上に置いた。

酒場は華やかで賑やかであった。誰しもがこの国に不満を抱え、その不満から目を逃すべく酒を煽る。人々の不安がより一層酒場を華やかにする。

ビールを持ってきたことで偶然にも彼らのやり取りを見たウェイトレスは、その札束を前に驚きの表情を隠せずにいた。その表情を見たシリングは束の中の一枚を抜き出した。

「チップだ」

想定外の報酬に彼女は微笑ましい表情でテーブルから去っていった。

店内の床は踏みつけられたタバコや食べくずが大半を占めている。彼女の仕事に対してのチップではなく「このテーブルのことはしばらく構わないでくれ」という意図を汲み取ってくれたことに対するものであった。

だが、そうなると彼女の察しの良さにもう一度チップをあげてもいいとシリングは笑った。一枚ずつ丁寧に作られた芸術はこのような偶然を装って広まっていく。

店の奥からの視線、彼女は何も言わずにただ、ルブノンを見つめていた。

ルブノンは答えに困ったが、それは彼女の身を滅ぼすのだとして、視線をそらした。

「みろ、また一人、幸せな顔をしていた。君の仕事は素晴らしい」

ルブノンはこのシリングという男を同郷として付き合ってはいるが、個人としては好かなかった。それを改めて顔に出そうとはせず、黙って話を聞く姿勢を保っていたが、我慢できずに言葉を返してしまう。

「これはまやかしの幸せだ。その瞬間は確かに幸福に満ち溢れるが、これは死への切符だ」

「じゃあその切符で一杯飲むかい? あぁ、そうか、それならここを出ようか、あまり噂になっても困るからね」

シリングは今にも懺悔をしかねない小男を連れて店の外へ出た。子供をあやすかのように一方的に話している自分の姿を、他人にみられるのが心地よくなかった。

「みろ、あそこに乞食がいる」

シリングが指さした先にはボロ布をまとった男が項垂れている。しかし、確実にこちらを警戒し監視していた。その周りには数人の子供の姿もある。

不細工に膨らんだ肩掛け鞄の重さを耐えながら小男はじっと黙っている。

「この道を抜けていくとしようか」

シリングは眉間にシワをよせることでルブノンの背中を押した。視線で歩かせることができたからと言って、彼がエスパーの類を使えるわけではない。

だがルブノンは黙ったまま、ゆっくり歩きだした。

横目に彼らを見ていた子供たちが、急に仲良く遊びだした。鬼が決まって、蜘蛛の子が散った。一本道を子供達はルブノンの方へ向かって駆け抜けていく。

子供の群れがルブノンを、庭の木々同様に自然に避けていく。それを見ていたシリングは子供たちの手際のよさを、心のなかで誉めながらも哀れんだ。

鞄が引きずられていたのは数メートル。それを持ち上げる係の子供が、馬車の馬みたく手綱の握りかたを指摘していた。

ルブノンはカバンを盗んだ子供達を追わなかった。

シリングもそれを止めなかった。

子供達は喜んでいた。ボロ布の男は一部始終をただ眺めていた。

幸せになるために生きている子供らは、このときほど笑顔に満ちたことはなかっただろう。

「さぁ、この場所は終わった」

シリングは手慣れた事案の一つを終え、次の場所に移ることを促した。

「もういいだろう」

ルブノンは立ち尽くしたまま、子供たちの姿が見えなくなるのを見送った。

「もしもこの結果が不満なら、君はあの酒場の女を口説いて、あの子供達にお菓子を配ったのか。あの老人に手を差し伸べたか? 君は偽善を振り撒きたかったのか」

「違う、そんなことじゃない」

「そうだろうとも。だが、君は自分の精神ではなく、身を守るために働いた。ちがうか」

「あぁ、そうだ」

ルブノンは無理やり現実を飲み込んだ。そしてしばらく休ませてくれと訴えた。

シリングはそれ以上を言わず、黙ってタバコを分け与え、自らのタバコにも火をつけた。

「そろそろ移ろうか」

彼が落ち着きを取り戻すのに三本。小男のケチ臭いタバコの吸い方にシリングは長いこと待たされた。

シリングはもう路地裏を歩く必要はないと説明したが、ルブノンは路地裏が覗き込める場所になると、さっきの子供達を探しているようであった。

「果たしてあれが本当に幸せなのか」

ルブノンが足を止めた景色に、一人の子供が泣き崩れていた。取り分で揉めたのだろうか。ひどい打撲の傷が、遠くからでも想像できる有り様だった。

「君にあの子は救えないだろう」

シリングの言葉によって、ルブノンの二歩目は重力に負けた。

彼の横顔が少年の無事を祈っていることは、シリングには容易にわかったが、それが無駄な感情であるとして、彼を哀れんだ。

「そこまでして彼らを救いたいというなら、国を捨てろ。そして、君の芸術品を全て集めることだ。そして、あの女と籍をいれ、あの子供達を養子に迎え入れるといい」

やはりルブノンの二歩目はなかった。不可能なことだと理解を深めたに違いない。

手先が器用なだけの小男は、その指先を拳のなかに納めた。彼の手の中には何もなかった。爪が食い込むだけであった。

シリングの背中を追うようにして、ルブノンは連れ立つ。

一ヶ月後。ひとつの国が財政破綻を起こした。精巧な出来の紙幣が一つの国のお金の価値を狂わせたのだ。もとより国政は良くなかったところにその出来事が起こったことで、国政は砂の城のようにして崩れた。そして、もうひとつの国がこれを皮切りに侵攻を開始した。

この激動の中、亡命を果たしたのだと小さな老人は語った。過去の様々な出来事を冒険として美化し、一人の女性と多くの子どもたちに囲まれて余生を過ごした。

過去を語らないこともまた老人の特権である。

美味しいご飯を食べます。