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箱根駅伝の沿道応援-個人主義の世の中に思う

個人主義の世の中だ。

この世の中、押し切った者勝ちである。

後ろ指を指されようが、押し切ればいい

一例を挙げると、二宮和也との交際を匂わせて二宮ファンを敵に回そうが、二宮と結婚したあの女性の勝ちなのだ。いち、にの、さん!だっけ。嵐のCDをさりげなくブログに投稿したんだっけ。その日にライブがあった土地のことをブログに投稿したんだっけ。1人対9999人でもその1人だけが勝つ状況が、世の中存在するのである。

コロナ禍の箱根駅伝にしても、同じである。沿道に行くなと言われても、罰則がないのだから行けばいい。沿道に立っていたらロケットランチャーでぶっ○されるぐらいの恐怖感・つまりは人体の原型を留めないぐらいの○され方をする恐怖感をちらつかせないと、沿道に行く人を0人にはできないだろう。

例年よりも簡単に、選手を間近で見ることができる。そして沿道に行った人たちは見た。それがテレビに映った。お茶の間の人が適当な理由をつけて文句を言う。理由というのも、様々考えられるが、どれも沿道組にとってみてはしょぼい理由である。選手を間近で見る満足感と引き換えに受ける批判など、容易いものだ。お茶の間勢にとっては、沿道に行った人たちが全国民の敵だけど、ただそれだけである。弱い。弱すぎる。

SNSで行ったやつを特定して炎上させる恐怖感を味合わせることも考えたが、それなら炎上させた側(つまりお茶の間勢)が法の裁きを受けてしまう可能性がある。そう、なぜか沿道に行くという本来悪いことをしたはずの人間どもが法に守られてしまう逆転現象も生じてしまう。

そんな世の中だ。

でも、多くの人は体感的にわかっているはずだ。

みんなで一緒に勉強していたら大学に落ちてしまう。最後に合格さえすればいい。個で勝たなければ。

みんなで一緒に就職活動しても企業に落ちてしまう。一人で自己啓発セミナーや業界研究をしなければ生き残れない。個で勝たなければ。

みんなで一緒に仲良くしていても大好きなあの子とは付き合えない。仲良しグループをぶち壊すとしても、攻めに行かなければない。個で勝たなければ。

今日はその個人主義VS集団主義の構図が浮き彫りになったのが箱根駅伝だっただけ。明日も明後日もまた別のテーマで繰り広げられる。そんな世の中である。

そして、我々は絶えずそのどちらかの選択を迫られるのである。ほとんどの場合は集団主義だろうが、人生で何度かは個人主義に、個人プレーに、何もかもをかなぐり捨てて自分一人にとっての勝ちを拾いに行かなければならない。

だから私は、箱根駅伝の沿道で応援をする人を見て、いつどこで自分が画面の中の批判される側になるのだろうかというタイミングを思案したが、今のところは未だのようだ。

なお、私個人としては、「沿道に行けばいい」と書いたものの、実際のところはお茶の間でテレビを見ていた。ロケットランチャーを頭に思い浮かべながら・・・。

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