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「数式なしで分かる〇〇!」は、何が「分かる」のか?

こんにちは!智の海ラジオの怠惰担当、菊池です。

みなさんは、「数式なしで分かる〇〇」とか「文系の私に〇〇を教えてください」みたいなタイトルの本を見たことがありますか?

こういう本を見て、どう思いますか?
「面白そう〜」と思いますか?

僕は性格があまり良い方ではないので、目に入るたびに「くっだらねぇ〜。こんなんで何が分かるんだよ」とか思っちゃうのですが、よくよく考えると実は全然くだらなくない本なのかもしれません。

なんなら、人間の異常なまでの求知心を象徴する希望的鏡像ともいえるかもしれません。

さらにいうと、理系も読むべき素晴らしい本なのかもしれません。
本記事はこんな「かもしれない運転」で進んでいきますが、どうぞよしなに。

なぜ、「数式なし本」が数多く売られるのか

まず最初の問いです。なぜ、こうした「数式なし本」が数多く出版されるのでしょうか。この問いに答えるために、日本の文系理系の比率について考えてみましょう。(ここではいったん、「文系理系という分け方はナンセンスだ」みたいな話は横に置いておきます)

みなさんは、日本における理系の割合がどれくらいか知っていますか?

令和3年度の学校基本調査「関係学科別 大学入学状況」によると、理系は約32%らしいです。(*1) 
(これ、結構意外じゃないですか?僕は理系が多数派だと思っていたので、自分で計算してびっくりしました。)

この数字から分かるのは、世間的には「数式が分からない人」の方が多数派だということです。(文系の中に数理に強い人がいることも、理系に関してその逆も然りだということも承知しているのでカギカッコをつけています)

つまり、「数式なし本」のターゲット層は結構ボリュームがあるのです。だから、本屋であんなに見かけるんですね。

でもちょっと待ってください。ただ「数式が分からない人」がたくさんいるというだけでは、たくさん出版される理由にはなりません。

実際、「門鉄デフ」を知らない人は多数派だと思うのですが、『門鉄デフ物語―切取式除煙板調査報告』のような本は本屋であまり見かけません。(門鉄デフのファンのみなさん、わざわざ引き合いに出してしまい申し訳ありません)

つまり、より正確に言うならば、「数式が分からないけれど数理的な話題に興味のある人」が世の中にはたくさんいるということになります。

これは、ある種の希望ではないでしょうか?
出版状況が社会の状況を反映する鏡であるとするなら、「数式なし本」が出版されている現在の状況は、ブラックボックスを放置しておけない人がたくさんいることの証左です。

ほとんどの人は、別にAIやデータサイエンスについて知らなくても楽しく生きていけます。それなのに、わざわざそうしたブラックボックスを開けにいくのですから、素晴らしい求知心です。

これが冒頭で言った、「人間の異常なまでの求知心を象徴する希望的鏡像」の意味するところです。

その視点で考えると、ファスト教養みたいなものに対する擁護も可能になりそうですが、個人的にファスト教養があまり好きではないので、擁護はやめておこうと思います。

数式がないことで失われるものはなにか

さて、「数式なし本」が出版される状況に関して「分かった」ところで、この記事のタイトルである「分かる」ということについて考えていきたいと思います。

まず、「分かる」とはそもそもどういうことでしょうか?この一言にはあまりにも多くの意味が詰め込まれているように思えます。

「お風呂入る前って、お風呂入るのめんどくさいんだけど、入った後は最高な気分になるよね〜」
「分かる〜」

という会話に出てくる「分かる」と、

「フーコーについて最近少しずつ分かってきたんだよね」

と言っているときの「分かる」は何が違うのでしょうか。この2つは同じなんでしょうか?なんとなく、違う意味で使っていそうな気がしませんか?

「分かる」という言葉を、「共感」「理解」に因数分解してみるとすっきりするかもしれません。

お風呂の会話の例は、「共感」の意味で「分かる」を用いていて、後者では「理解」の意味で使っていますね。

では、「数式なし本」はどちらの意味で「分かる」を使っているのでしょうか。

本のタイトルをみて期待されるのは「理解」ですが、本質は「共感」に近いのではないかと思っています。

どういうことでしょうか。「理解」と「共感」について、僕なりの定義をここでしてから考えてみようと思います。

「理解」とは、その理屈が成立するためのロジック(前提条件や適用範囲などの論理構造)を正確に把握し、自分でその理屈を適切なときに利用できる状態に持っていくこと、だとします。「理解」は、自分の気持ちとは無関係に成立します。

「共感」とは、理屈を身体に染み込ませたときに、自分の持っている感覚と適合しているのを確認すること、だとします。これは「理解」と異なり、その理屈を実際に自分が利用できるようになることは無関係に成立します。

こう考えてみると、どうでしょうか?
本質は「共感」に近い、という主張が少しは掴みやすくなるでしょうか。

「数式なし本」に特徴的なのは、ガチの専門書や教科書に比べて具体例が豊富なうえ、身近なものが多いということです。

日常的な世界に即した具体例は、抽象的な議論を繰り広げている数学チックな世界を「理解」することにはつながりません。
どちらかといえば、どういう気持ちでこのロジックを作っているのか、という「共感」を深めることにつながります。

なぜ、「理解」につながらないかというと、身近な例をたくさん見ても、そこで構築されている理屈を自分で利用できるようにはならないからです。

数理的な議論は、抽象的で日常から乖離しているからこそ、応用範囲が広くなっています。それを抽象のレベルで「理解」せずに、日常に落とし込んで「共感」しているだけでは、それを応用することはできません。

ここでエクスキューズしておきたいのが、「理解」が至上で、「共感」は役に立たないと言っているわけではないということです。

「共感」をするだけでは「理解」に至ることはない、ということを言いたいのです。

逆に、「理解」だけでも実は困ります。自分の感覚から遠いものを利用するのはなんだか気がひけるからです。

したがって、ある理屈を見に染み込ませて我がものとするためには、「理解」を進めるのに抽象的な議論を掴むと同時に、具体例を考えてみることで「共感」も進めていく必要があるのです。

よく言われる、抽象と具体の往復、というのはまさにこの作業です。大学での数学の勉強はこれが基本姿勢になると思います。(高校までは教科書が非常に丁寧なので、勝手に抽象と具体を往復させてくれますが、大学だとそこまで丁寧ではないので自分で具体例を考えたりする必要がある印象)

話が少しそれました。元に戻しましょう。結局ここで僕が言いたかったのは、数式とは抽象的な議論そのものであり、「理解」のステップで必要になるものだ、ということです。

一方で、「数式なし本」はこうした「理解」のステップのために必要になる材料が失われ、その代わりにたとえ話や日常的な例が豊富に書かれており、「共感」させる作りになっています。

したがって、「数式なし本」の本質は「共感」なのです。数式で失われるものとは、応用可能性にほかなりません。

理系も「数式なし本」を適切に利用しよう!

以上、「数式なし本」は「数式の分からない人」が読む本だということをもとにして話をしてきたのですが、実はこうした本は「数式の分かる人」こそ読むべきなのかもしれません。

私(数学科)の経験だけの話で恐縮ですが、理系での専門的な勉強は抽象的な議論に終始し、具体例や気持ちをスルーすることが多いと思います。

すると、「定理の主張内容と証明は理解できたが、何に使えるんだ?」とか「この概念の定義は理解できたが、これを定義して何が嬉しいんだ?」のような状況になりがちです。

このとき、優秀な人であれば自分で具体例を考えて、具体と抽象の反復を進めることができるでしょう。しかし、僕のようなあまり出来の良くない学生は自分で具体と抽象を反復するのが難しいので、定理や定義に対して「共感」が得られずモヤモヤと過ごすことになります。

自主ゼミに参加したり、先生に質問したりすることでこれを解決するのも1つの手ですが、「数式なし本」に頼るというのもアリじゃないでしょうか?

ルベーグ積分で苦しんでいる僕に、誰か「数式なしで分かるルベーグ積分論」を!……無理ですか、そうですか。かえって難しくなりますか……そうですか……。頑張って教科書で勉強します。ありがとうございました。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
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(*1) ここでは、人文科学・社会科学・商船・家政・教育・芸術・その他を文系として、理学・工学・農学・保健を理系として計算しました。
令和3年度の学校基本調査「関係学科別 大学入学状況」

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