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優しくあるためにはフラットさが大事という話。

優しい人というのは誰か特定のお気に入りに入れ込むことなのか、みんなにフラットに分け隔てなく接せれる人なのか。前者は見え方によっては優しいが、残酷さも孕んでいる。

後者は誰にとっても優しく見えるが、人間性は見えづらい、見え方によっては少し怖い。機械的な印象を受けてしまうからお近づきづらい。

ということで大事なのはバランスであるのだが、フラットでかつ主観も大事にするというのはなかなか難しそうである。

ということで解釈としてはこう、「平等な愛の与え方を技術として知りえていて、それが故に節約できたキャパシティで特定の誰かをより愛する」みたいなのがいいんじゃないかと。

こうやって言葉にするとものすごく打算的に見える。書いてて結構反吐が出る。こういう知性の使い方ってすごく生きやすそうで、うまいこと周りを自分の人生に役立てていそうで、いい人だと思って接していて見え隠れしたら軽蔑しそうな本性である。

しかしながら、現実的にできた大人、人格者というのはほぼこれをやっているんじゃないか。だってそうだよね、社会で生きている以上、互いの気持ちよさを最大化することに無意識ではいられない。誰かを愛するだけ、というのはできない。だから技術としてやれること、それが基盤としてあった上でお金が稼げるし、自分の愛ができる。資本主義であるから、愛をやるにもお金、そして社会性が必要なのだ。

そういう訳だから、疲れずに愛を広く与える技術、フラットさがやはり必要になってくる。これをこうやって言語化している時点で僕はそれを意識していることになり、そういうのがとても気持ち悪く映る、少し前の僕ならゲボ吐いて嫌だ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜キモい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜糞社会〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ってなってたんだろけど、現実的にそうでしか在れないよなあ、生きるという上で消去法的にそれしかないよなあとわかり始めてきた。

世界観を変えてしまえば話は別なのかもしれないが、なにか宗教を信じるとか、国を変えるとか、でも結局日本で生きていくならば特にそういうフラットさからは逃れられないような気もする。

そういう訳で、自分の本当にやりたいこと、本当に愛したい対象(かならずしも人とは限らない)のため、反吐の出るようなしたたかさ、フラットに美しくなれるような器用さを覚悟して飲み込んでいく必要がある。そう考えている。

世の中の人は別にこんなこと考えてないと思うんだけどね、もともとが人間の善性みたいなものへの期待が強すぎるから、醜さを飲み込むとか、そういう意識くらいぶつけてやらないとバランスが取れない感じがする。結局綺麗でいたいんだけど、それは現実的でないから、少しでも自分なりに美しさを保つために最適化していかねばならぬ。やはり僕は、意識はあんまり現世を生きていない感じがする。

自分語り多めね、ありがとうございました。
久しぶりにnote書くと整いますね、解像度解像度。

いよいよ暑くなってきましたね、ぶっ倒れないように気をつけつつ、たまにはぶっ倒れて、生き延びていきましょうね。対戦よろしくお願いします。足立

もっとおもしろくなりたいです