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全能感が若者にとって何よりのリソースであり、合理性でもあるということを大人はわかっていてほしい。

現実を教えることは大人の役目だが、同時に子どもの中に存在する世間知らずの絶対的な世界観を壊さないことも意識するのが大事だと思う。

経験の違いから不完全に見えるのは至極当然のこと、どうしてその視野の狭さで、それだけ自信を持っていられるの?と感じることもあるかもしれない。

しかしながら、それが若者にとっての何よりの原動力、大人にとってお金や時間といった有限なリソースに当たる、制限時間付きの財産なのである。

結局若さの延長線上に大人がある。大人になった側は忘れているかもしれないが、その若さゆえの勢いと、そうでなければできなかった失敗、打ちのめされての失敗から学び、修正した結果としての今がある。

当然失敗に突っ込めるのは恐れを知らないからである。既に結果がわかっていることをわざわざ選択しない。だけれど、身体に染みて失敗をした結果の大人と、そうであることをただ知っているだけの大人では雲泥の差がある。

「本質的な失敗に突っ込める」というのは間違いなく若さの特権で、それを可能にするリソースが視野の狭さからの全能感、根拠のない自信なのである。

だから、大人の役割は危うく見えるそれを否定することでなく、本質的な失敗を致命的な失敗にさせないことなのだ。当然、全能感のままに突き進めば一生引き摺るであろう社会的信用の損失に行き着いてしまう。

そうならないように、子どもの世界観を「世界」として尊重しつつ、そのバックアップを陰ながら行うのが素敵な大人だと僕は思う。

ただ当然大人も感情は有限であり、時間も限られる。見返りを求めないのが"素敵"だからと言って施しの対象は選びたい。その限界を知った上で、大人が与えるそれはいわば「投資」なのである。見込みのある若者に対してそういった教育コストを払い、将来性に期待をかけ、羽ばたいていく様を「楽しみにする」。そこに融資や物質の行き来が生じることもあるけど、それも含めて教育の一環であったりする。そういう大人と若者の関係性。

その対象を選択する基準となるのが根性であったりとか、素直さであったりとか、若者の側もまた大人に時間を使ってもらうだけの必然性や礼儀を拙いながらも意識し、示していく必要がある。当然うまくやれないのは大人もわかっているから、姿勢を示すというのが大事。混じり気のない素直な感情にととのえ、相手の感情の側に立って、"うれしさ"を考える。相互利益の最大化という「姿勢」。それが見込みのある若者の要素のひとつだと、そう考えている。

まとめると、大人は子どもの世界観を尊重しつつ、子どもは尊重されていることを自覚して大人たちの感情に寄り添う、寄り添う意思がありますという姿勢を見せる。お互いにそれができれば素敵な関係性になると思われまする。以上なり。

小えびのサラダがうまい!仙川のサイゼでこれを書きました。先ほどゲーセンで年確されました。うへへ
ありがとうございました。

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