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結局人は自分を楽しませてくれる人が好き

どんな手段でもいい、見た目が優れた人間は存在してるだけで人を楽しませるし、それがなくとも人々の奥底を揺さぶる感性があるとか、底なしの財力があるとか、なにかしらの形で他人を楽しませられる要素を持った人はとりあえずの孤独を満たすことができる。

社会性とは僕は「最低限のコストで最大限の気持ちよさを相互に生み落とすための最短の合理性」だと思っている。人は楽しみたい。どんな手段であれ、とりあえず深いとこにある感性や報酬系を刺激されて、なんかいい感じになりたい。だから手段問わず楽しませてくれる人を本能的に求める。

逆に言えば、孤独に苛まれたのならば、それは今現段階で人を楽しませる力を持たない、あるいは素質はあるけど表には出ていない、もしくは今の自分が楽しませられる相手が近くにいない、のどれかだと思う。

まずこれに気づくことが重要で、孤独だとのたうちまわる前に、まず今の自分と付き合うことで楽しんでもらえるだけの価値があるのかを考える。すごく冷たい言い方だけど、社会性の本質はいかなる関係性であっても「win-win」、仕事であろうと、恋愛だろうと、友人だろうと、家族であっても、なんらかの相互利益が発生しているから関係性が継続している。

孤独の癒やし方、それも同情ではない方法で健康的に満たす方法は、他人にとっての自分の価値を客観視して、なにか、なんでもいいから一芸を身につけることが最短経路のひとつである、と思う。

みたいな世界観ってすごく寂しくて優しくないことのように感じるけど、人間である以上本能的に気持ちよさを求めてしまうのは仕方のないことだし、それを捻じ曲げて感情っぽく演じたところで虚無以外の何物でもない。自分から与えられるメリットを意識することは、人として生きていくために避けられない戦いなのである。

「んなこと言ってもなんも出せないよ〜!」ってなるんだけど、要は満たされればなんでもよくて、なんもないところからできるのは感情報酬、自分が苦しくならない表現で相手を満たしてあげられるようになること。相性の問題ももちろんあるけど、運命の人を探しても時間は有限なので、「言語」を工夫する。

みんな自分の言語が結局心地いい。言語というのは、各々が持つ世界観によって異なる。入ってくるにしても発するにしても気持ちがいい。だから基本自分の言語でなんでもやりたい。

で、ここでやるべきなのは「相手の言語に出張すること」。これを自分からやる。”寂しい人”は、自分の世界観や言語から全然でてくる気配がなくて、楽しくないし、未来を感じない。一方で、たったひとつでも「あっ、今のは私の言語だ」と感じられるものがあったら一気に親近感を感じる。

全部当てようとする必要はない、し、自分の言語を失う必要もない。ただ、相手の世界観の方に「変換」してあげればいいのである。中身は自分の内側にあるものでいい。

なんなら一切当たらなくても、こういう寄り添いを、する意志があるよ!と姿勢を見せるだけでも間違いなく好感度は上がる。へたっぴでもとりあえずはそれでいい、やってくうちに上手くなる。

この寄り添いが相互にできるようになっていくと「関係性」、共通言語を確立したりとか、世界観の掛け合わせで新しい価値を生み出したりとか、そういうことになってくる。これが社会性の真髄。人の営みの強さ。

「言語を工夫する(寄り添う)」こと、「言語が似ている相手を探す」ことをまずやって、その上でさらにコンテンツまで本物だったらクッソ強い。逆に言えばどれだけ中身が良くても寄り添いができなければほぼ間違いなく孤立する。勿体なすぎる。

才能を発見してもらえる時代ではないと思うので、そういう点でも謙虚に、ちゃんと寄り添う意志を持つことが結果的に自分のためになるんじゃないかと、そう思いますね。

というわけで、傲慢にならずに誰かを楽しませようとする意志を持つこと、相手の言語に寄り添うことの大切さを書いてたみたいです。ありがとうございました。

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