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『曹操論集』とは何か? “新解釈”と言い換えた歴史改ざん・文革ポリコレ

当ブログで何度か触れました『三国志』における歴史改ざんの基本テキスト、『曹操論集(そうそうろんしゅう)』。

『曹操論集』とは中国共産党が1958年~文化大革命において学者たちに書かせた“歴史改ざん”論文集です。在日の共産主義者が書いたコミック、『蒼天航路』の原作と言えます。

原書は中国語であり、またこれらの論文が書かれた歴史経緯が記されていないため日本人が読むのには適しません。内容も改造史を正当らしく見せかける洗脳道具としてのプロパガンダ書そのものです。ベース知識の中華史が頭に入っておらず、『三国演義』しか知らずに育った日本人が読めば「これこそ史実なのだ!」と勘違いして鵜呑みにするだけでしょう。

真正の史実を知るためには、まず『曹操論集』が世にばらまかれた経緯こそを知らなければなりません。

それには当時の中国大陸の社会情勢を記したレポートが必要なのですが、ほとんど残っていないのが実情です。

当の中国では文化大革命時の歴史改ざんを客観的に記した資料などなく(当たり前。共産党は自分たちの犯罪行為を記録させない)、欧米にもほとんどありません。共産国の犯罪は主に欧米人がレポートしてきたのですが、欧米人で中華史を理解する人は少ないので歴史改ざんの犯罪自体に気付くことさえ難しいはず。

日本人が記した『『曹操論集』:曹操論争よりみた中国「中世」史の理論 』は、数少ない客観資料ではないかと思います。

しかし近年この資料と関連するページがネット上からことごとく削除されているようです。

現在はPDFで公開されていますが(上のページでダウンロードをクリック)、削除される可能性もあります。

そこで当記事では上資料の情報を保存し論評する目的で引用していきます。

〔この記事は本体ブログからの転載です https://shoku1800.tokyo/2024/08/post-9169/

*2024/8/31 冒頭文を初訪問の方向けに分かりやすく修正


注意:著者も左翼として歴史改ざんを称賛している

引用の前に断り書きしておきます。
この文書の著者である好並隆司も左翼であり、中国での文化大革命を“マルクス主義の成功例”として誇る意識で書いたと思われます。この点要注意です。

歴史改ざんなどの犯罪を「素晴らしい善行」として褒め称える気持ちが行間から滲み出ています。これは人類の価値観に反しますが、おそらく著者は本気で善行だと信じています。精神衛生に悪いため疲れているときは読むのを避けたほうがいいかもしれません。

引用文について

では、次の項目から引用文を掲載します。引用文は

このように blockquote で囲みます。

囲まれていない箇所の文は当ブログ筆者による解説です。現代語で分かりやすく解説していきます。

引用文は、断り書きのない限り『『曹操論集』:曹操論争よりみた中国「中世」史の理論 』〔東洋学報巻 43, 号 2, 発行日 1961-03 〕を指します。

旧字体は現在の新字体へ直しました。

引用文中、…(略)… は当ブログ筆者による省略箇所です。太字は当ブログ筆者による強調です。


曹操の評価変えは“社会主義的な総合力“、“政治的意図”

冒頭からいきなり重要な事実が記録されていますので要注目です。

決定的な事実。歴史レイプが始まった瞬間;これは歴史論争じゃなくて思想・政治闘争なんだよ

 近来、中国の史学界における最大の論争は三国魏の曹操評価問題であろう。これは千篇に達する論文と評論を生み出し…(略)… 討論参加者が混乱を起す心配のある時には、新聞・雑誌が適宜、道標の役割を果し、各論者の視覚を紹介した。この様に見れば、曹操論争は中国各界を動員しての一大カンパニアであって、まさに社会主義的総合力を発揮したできごとであったと評してよいだろう。

――東洋学報第四十三巻 P265(P105)

この通り冒頭、曹操の評価変えが「社会主義的総合力」を発揮した一大政治闘争(カンパニア)であったことがはっきりと記されています。

「新聞・雑誌が道標の役割を果し」議論を指示したとあるように、自由な歴史議論が行われたわけではなく、あくまでも中国共産党に服するメディアに従って議論がコントロールされたのだということです。


 所で、この論争の背景には極めて大きな思想斗争が含まれ、政治的な問題が介在していると思われる。

――同P265(P105)

この文書で著者が最も表したい事実がここでもう明かされました。

三国志の解釈変更は自由な国におけるような楽しい歴史議論などではなく、文化を書き変えるための思想闘争「文化的マルクス主義」の実行なのだよ! と誇らしげに語っています。

文化的マルクス主義とは:


ノーマークだった古代史も漏れなく抑圧はじめました♪

新中国が解放以来、八年間に、ブルジョア思想の批判、反右派斗争はほぼ所期の目的を達したが、なお一部の知識人には革命の実践を避けて、古代史研究に名をかり、中国の建設をサボタージュする分子が存在するという痛烈な批判が中共中央宣伝部の陳伯達から問題にされた。

――同P265(P105)

まず著者がわざわざ「新中国が解放」と言っているところに注目。

解放って……。一般国民に認められていないカルト集団が政権を強奪し、人権を奪って人々を抑圧する独裁支配を“解放”と言い換えるこの反転思考が気持ち悪いですね。

さらにただ誠実に歴史学を研究していただけの学者に対して「古代史研究に名をかり、中国の建設をサボタージュ」とはおぞましい言いがかり。共産国では人の道に反しない公平忠実な学者を「サボっている」と犯罪者呼ばわりするようです。きっと人殺しを好まないこと、人肉を食べないことも「サボタージュ」と呼ばれ怒られるのでしょう。完全に人類とは反する価値観です。


ともかくこの陳氏の宣言以降、政治とは関係ないと思われてノーマークだった古代史研究まで共産党が注文をつけてきて、古代史が政治利用されるようになったということです。

(意外なことにこの時まで古代史では公平な議論が可能だったわけですね)

この時点から中国では自由で公平な歴史議論が一切できなくなり、共産党の意向に従った改変歴史しか口にできなくなったことになります。

趣味や文化など精神世界まで漏れなく支配される。人権ゼロ、精神ハックの家畜化完了。ディストピアここに極まる。


これが五八年三月上旬のことであり、彼の報告をきっかけに“厚今薄古”の必要性が問題となり、歴史の研究の大勢が、五四運動以降の近代史重点という風に理解されたのである。これ以降、中国史学会は急激な左翼偏向を生じ、問題提起者の陳伯達自身「紅旗」13でこの傾向を批判して“厚今薄古”とは歴史知識を現実に生かすことに他ならぬと述べた。かような状況の展開から、ここに“薄古”の意味が問われなければならなかったのである。

――同P265(P105)

具体的な時期が記されています。陳氏の報告が1958年3月のことだそう。

(さらにこの後の文化大革命で毛沢東が「善悪反転」の命令を発して、全人民に改変歴史が強制されることになります)


共産党幹部の発言は国の命令に等しい。この数年前「百家争鳴(ひゃっかそうめい)」という号令が発せられて多様な意見が出されたのですが、共産党の意向に反する意見を述べた人々は全員逮捕されて処刑されました。

以降、共産党の意向に反する発言をすることは完全に不可能となり、誰もが共産党の顔色をうかがいながら発言するようになりました。したがって陳氏のような共産党の偉いひとの発言はイコール国の命令、ということになります。

こうしてこの時から中国共産党の意向で、一気に「文化的マルクス主義」による歴史改変が遂行され、学者も個人も総出で改変史を囀(さえず)ったということです。囀らなければ殺されるのだから当然です。黙っていてもサボタージュと言われ殺されるのです、嘘でも必死で囀ります。

結果として千篇以上の「曹操ヨイショ論文」が刊行されたとか。自由主義の国ならあり得ませんね。そんなに殺人鬼ラブな変態が多いはずがない、笑。


“厚今薄古”とは歴史をないがしろにして現在を優先しよう、という意味になりますか。

今の自分たちの都合のために歴史を書き変えちゃおうぜ、と。歴史なんかどうでもいい、大事なのは現在だけ。だから古代の歴史を作り変えて現在の共産主義のために利用すべきだ! 翻訳するとこうなるかな。

“温故知新”とは正反対の言葉です。

問題提起した陳伯氏もあまりの史実無視のご都合主義論に驚いたようで、「歴史知識を今に生かすべきという意味で言ったんだ」と苦言を呈したらしい。共産党高官が苦言を呈するくらいだからよほど狂った議論が噴出したのでしょう。


郭沫若の問題提起は右派史学への批判も含めながら、左翼偏向の傾向について批判の主な視点をおいたようであって、その好材料として曹操を取り上げ、広汎な論争をひらく端緒を把んだことは、その結果の如何をとわず、政治的にタイムリーであったことは誰しも否定するわけにはゆかないであろう。…(略)… これは中国学界にとって大きな収穫であったと言わねばなるまい。一九六〇年一月発刊の「曹操論集」はこの論争における主要論文をまとめたものである。

――同P266(P106)

最後の文「一九六〇年一月~」以外、ちょっと何を言っているのか分からない。笑

この著者はどうやら、共産党のコントロールのもとで行われた歴史改ざん(歪んだ解釈による議論)を誇らしげに「大きな収穫」と呼んで称賛しているようです。

文化破壊の蛮行を称えるとはカルト思想信者の異常さがよく表れています。背筋が寒くなる文章です。


曹操ヨイショで「屯田屯田」の呪文を唱えるようになった経緯

現在も渡邉義浩など孔子学院の学者たちの書籍や、ネット上の曹操信者の書き込みに

「我が曹操様は屯田(とんでん)政策を発明されて農民を食料難から救われたのだ。曹操様は慈愛に満ちた救世主だ。屯田屯田~」

との曹操称揚の呪文がよく見られるはずです。

当然これは事実反転の呪文です。


この曹操を持ち上げるための呪文、「屯田屯田」がいつから声高に唱えられるようになったのか? と言うとまさにここで挙げられている『曹操論集』の論文が出回り始めた1958年からだそうです。

1958年と言えば毛沢東が大躍進政策(だいやくしん・せいさく)の号令を発した年。

大躍進政策とは中華人民共和国における農作物や鉄鋼製品の増産計画のこと。現実には中国全土の人民から財産を没収し共産化を徹底的に進めるための政策でした。農作物も鉄鋼もまともに生産されなかったため、中国全土から食料が消えて数千万人の餓死者を出した悪名高い政策です。

参考

【POINT】
もうお分かりかもしれませんが、曹操ヨイショの呪文

「曹操が屯田で食料安定させて農民を救った」

とは、「毛沢東が人民公社で食料安定させて農民を救う」というスローガンの投影に過ぎないのです。

曹操を持ち上げているかのように見せかけて実は毛沢東のことをヨイショしていたのですね。

(曹操も気の毒に… 曹操のことだから低能どもに自分が利用されている現実を知れば激怒するはず。転生して共産主義者たちを虐殺するかも)

つまり本当は、「曹操が屯田で食料安定させて農民を救った」という歴史事実は存在しないのです。

屯田政策は行われたでしょうが、曹操が農民を救う目的でこの政策を発明したという事実はありません。少なくとも曹操が民を救おうと考えた形跡は一切ないと言えます。

このように毛沢東の個人崇拝を推し進めるために「曹操は屯田で民を救った」との説が必要だったので、学者たちはどうしても曹操=屯田の英雄という作り話をもっともらしくこじつけなければなりませんでした。

これは命がけの義務です。こじつけに失敗すれば殺されます。

以下、学者たちによる命がけの屯田こじつけパーティの記録になります。



苦しい設定…「曹操は黄巾革命の継承者」

「曹操が屯田で民を食料難から救った」という嘘を真実らしく見せかけるためには、まず前提として「曹操は民を救う目的で支配者となった」という作り話を打ち上げる必要がありました。

この論拠として学者たちがひねり出したのが、「黄巾革命の継承者・曹操」という設定だったようです。


曹操へ毛沢東を投影するため「革命の継承者」と呼ぶ

言うまでもなく共産主義では革命※こそ正義です。

そして中華人民共和国では、その正義を象徴するのは革命の英雄である毛沢東になります。

ここで学者たちは曹操へ毛沢東を投影するため、「曹操は民のために立ち上がった革命者だ」という作り話をしなければなりませんでした。

※共産主義の革命(=レボリューション)と漢語の革命は意味が違います。詳しくはこちら


ところが史実の曹操は豪族という貴族の出身であり、革命とは程遠い生涯を送りました。

彼は宦官の孫として生まれ贅沢三昧に育ったブルジョワ中のブルジョワ。中年以降は皇帝を傀儡にして権力をほしいままにしたTHE独裁者。つまり共産主義者が憎んでいるはずのヒトラー以上のお貴族様で、専制主義者です。

この共産党の要求とかけ離れた曹操実像を繕うため、「曹操は黄巾党の民衆革命を継承したのだ」という苦し過ぎる設定をひねり出したのでしょう。

三国時代における黄巾の乱は民衆革命と見えなくもありません(現実は宗教団体が率いた盗賊による暴動だったのですが)。だからまずは、この黄巾賊を革命の祖と設定した。その革命を引き継いだのが「我が曹操様だ」というストーリーを考えたわけです。


なお現実を言えば、曹操は農民(民衆)に打撃をあたえたことしかありません。曹操は城攻めで農民を虐殺したり自分の立派な宮殿を建てるために搾取したりしたが、農民のための政策をしたことなどないのです。もし曹操が農民を慈しむ人徳ある人物ならば、幾度となく繰り返された曹操に対する住民反乱は起きなかったでしょう。

参照。曹操の軍が通り過ぎた後の地域は住民が皆殺しにされたとあらゆる書物に書いてある。攻城の際も、必要もないのに「屠城」と呼ばれる徹底的な住民虐殺ジェノサイドが行われた。


「民を救うために立ち上がった」設定ならば歴史事実として劉備にこそ当てはまるのですが、劉備は漢王朝の末裔であるから共産主義者から見れば支配者階級であり、彼らにとっての“敵”となります。

(そのわり何故か共産主義者たちは劉備が漢王朝の末裔であるという事実も否定しますが。王朝は自分たちにとっての敵なのだから、劉備の歴史事実はそのままにしたほうが筋が通るのでは? と思いますが…。常に矛盾して意味不明となるのがカルトの特徴ですね)

さすがに当時の学者たちには、劉姓の劉備に革命を担わせるのは無理があると感じられたのではないでしょうか。どんなこじつけでも駆使する共産主義者ですが、あらゆる書物や演劇で伝えられている歴史人物の姓を書き変えることまでは難しかった様子。

さらにマルクス主義の教義として「善悪反転」という絶対使命があります。地上で善とされてきたものは全て悪に、悪を善に反転しなければならないという教義です。

このため中国共産党は中国で慕われてきた劉備を「悪」に、憎悪されてきた曹操を「善」と設定して、曹操を革命の旗手とする歴史改変を命じたわけです。


曹操を革命家に仕立てるため黄巾乱の新解釈も創作した

郭沫若の所論は、黄巾起義の目的が生活安定と食料の確保にあったと考える。これは曹操が黄巾の目的を継承して完成したという彼の主要な論点につながるため、重要な前提をなしている。即ち、支配層が階級を越えて進歩的な役割りを果しうるという理論的立場である。

――同P266(P106)

曹操を黄巾乱の継承者とするために郭沫若という学者は、まず「黄巾乱は食料を得るための革命だった」との前提を考えました。

各地域を破壊して農民から食料を強奪するだけだった黄巾賊が「生活安定を目指していた」などとは笑わせますが。

まあこの設定も共産ファンタジー(妄想)というものですね。共産主義者たちも美しい大義名分を口にしながら破壊行為と民間人殺戮に励む。


「支配層が階級を越えて進歩的な役割りを果しうる」の箇所は意味不明です。もしも曹操を民衆革命の継承者としたいなら上から進歩を強制するのはおかしな話で、“階級を越える”もマルクスの教義に反していて教祖を怒らせるのではないか? と思います。


曹操ならブルジョワでも搾取していてもいい?

案の定、マルクス主義に反する矛盾点については他の共産学者たちから批判を受けたようです。

曹操は支配階級! 共産主義の正当論者から批判噴出

これは当然、階級斗争中心の立場から多くの批判を受けた。まず各論者に見られる前提は曹操が封建統治者であるという階級的立場の確認である。曹操は反動地主集団の代表で黄巾の目的を継承するはずがないと考える楊柄、孫次舟らの形式的な批判意見もあらわれたが、論争の主流は支配階級を二つの階層に区分することによって展開して行った。

――同P266(P106)

「曹操が封建統治者であるという階級的立場の確認である。曹操は反動地主集団の代表で黄巾の目的を継承するはずがない」

…反動地主(笑)、という共産用語に失笑してしまいましたが、そこ以外は全くもってその通りだと思います。

もしも共産主義の聖典通りに解釈するなら、曹操は共産主義者たちの敵であり農民階級の代表にはなれないのです。ところが「支配階級を二つの階層に区分することによって展開」してしまう。

支配階級を無理やり二つに分けて階級をつくり、階級闘争という共産主義の教義に当てはめるよう歴史創作するということでしょうか。

出ました二重思考のこじつけ技。矛盾を矛盾のまま力業でねじ伏せる詭弁です。


曹操様ならブルジョワだっていいじゃん

即ち、強宗地主、中小地主、および農民という三区分であり、中小地主を代表しているのが曹操だという見解である。…(略)… こうして曹操が中小地主の代表者ということになると、一面で強宗地主を打撃しながら農民に譲歩し、他面、農民に打撃をあたえて地主階級の利益を守るという二面性が説明できるのである。このような視覚を設定すれば郭沫若の提起の難点と考えられる、階級の違う者へのバトンの継承は可能となるとみたのであろう。

――同P266(P106)

はあ??

もし「曹操が中小地主を代表」しているならそれは完全にブルジョワジーのことであり、共産主義者が敵と定める階級ではありませんか。笑

正しい現実を言えば曹操の祖父は漢朝廷でもかなり高い地位におり、中産階級とすら言えずここで区分けされた「強宗地主」とやらに該当するのではないかと思います。それでも現実を黙殺して曹操はブルジョワジーだということにし、さらにそのブルジョワを「民衆の味方」と嘘八百で作り替える。教祖のマルクスさんが怒るよ?

また文書中に「強宗地主を打撃」とあるのは袁紹との戦闘のことだろうが、曹操は民衆革命の代表者として悪い地主を打撃したわけではなくてただ自分が独裁するために邪魔だったライバルを潰しただけのこと。

なにが「民のための革命」だ。

毛沢東など全ての共産主義者・カルト信者に同じことが言えますが、彼らは民をこの世の地獄に叩き落して虐待する盗賊です。それなのに「民のため」を掲げるとは薄ら寒い大ウソつきです。本音は盗みたかっただけでしょう。そこは確かに曹操と同じ。


反マルクス。屯田で高率搾取も、我が曹操様なら善行になる…

驔其譲は生産の快復と発展に屯田は有効であるが、高度の搾取があって人民に不利であるとし、…(略)…屯田は搾取率が高く、軍制下で自由を制限されたが、屯田客は一応生活の保証をうけているので進歩的な意味を持ちうるなどの評価があり、

――同P266-267(P106-107)

共産主義で憎悪される「搾取」というブルジョワ行為ですら、曹操(毛沢東)の政策なら「進歩的で人民にとって良い政策」ということにしてしまう。

ちなみにこの文書によれば曹操の屯田貢納分は漢代に準じて50%~60%とされていて、かなりの高率。私が思うに曹操は漢よりもっと高率の貢納を求めたでしょう。曹操は自分自身のために豪華な宮殿を建設したり、軍事のために街道を拡張したりなど巨大な工事を多く行っていることから、住民たちへ高い税金・貢納を強いたはずと推測できます。

でもどれだけ貢納が高率で、搾取によって住民たちが苦しんだとしても、「曹操様なら進歩的な善行」ということになるそうです。マルクス主義的にOKなんでしょうか!?


聖典と崇めるマルクス主義の教義に反する行いでさえ、自分たちのリーダーだけは良いことになる。

平和を掲げながら暴力をふるう。非暴力活動の暴力は許されると言う。

このように常に法律や教義に矛盾するご都合主義を推し進めるところが共産主義者の頭のおかしさです。曹操と共産主義者は嘘つきで独善、残虐な点で本当にソックリ。共産主義者が曹操に共鳴するのも分かります。


正論は「空想的社会主義」で蹴散らす

そこで論証は再び黄巾起義の目的は郭沫若の指摘の如く、生活安定と食糧確保にあったかどうかに戻ることになる。先づ、…(略)…らは黄巾軍は“耕者有其田”の如く、土地を所有することを目標として居り、単に生活安定と食糧を求めたのではないと主張し、曹操はその意味で、黄巾の運動を継承したものとは言えないという論を主張して、土地所有要求説を提起する。
…(略)…黄巾は宗教組織によって蜂起したが、その目的は自らの政権を樹立して、貧困と逃亡の状態をなくすることにあったが、当時の歴史段階から実現不可能で、空想的社会主義に映ったのであると言う

――同P267(P107)

うん、だから黄巾賊が安定生活なんか求めたわけないって言ってるじゃないですか。

まだこの頃にはまともな学者が残っていたようで正論の批判が出ましたが、こじつけ歴史改変の騎手・郭沫若らに謎の論によって蹴散らされます。

曰く「土地所有のスローガンは現代的な考えで当時はまだ無かった」「黄巾の農民たちは貧困から脱するために革命を起こしたが実現不可能だったので、空想的社会主義に移ったのだ」…うんぬん。

えっ 黄巾賊が空想的社会主義に移った??? 完全に意味不明です。

そもそも黄巾賊は農民ではありません。元農民も流入していましたが、大本は盗賊稼業の宗教集団ですね。もともとが土地を持たない放浪の盗賊集団ですから、土地所有を切望していたと考えるのが自然です。それどころか彼らは国家権力を所望したのです。社会主義へ移ったなどと言うほうが現代人〔共産主義者〕限定の妄想です。

そのようなわけで彼らは外部から見れば理解不能な思想議論をもてあそんでいただけですが、本人たちは空想的な結論でまとまりご満足だったようです。


理想のためなら民衆虐殺も歴史レイプも人肉食も、どんな蛮行も正当化される

さて、継承問題はなお討議すべき点を残した。それは郭沫若の説で、黄巾軍は曹操によって青洲軍に編成され、曹操の北支統一を助けたから、曹操の政策の中には黄巾の意志が入っているというのである。羅耀九の意見は、青洲兵は降っても独自な態度をとっていたし、各豪族に利用された場合でも黄巾は変質していないというのであり、…(略)…
曹操との関係については起義の初期は社会の主要矛盾は農民対地主で、その際に於ける曹操の立場は後者にあって、不名誉な役割を果したと言うべきだが、青洲兵として編成されて以降は地主内部の闘争が主要矛盾となって、青洲兵はこの統一と平和快復のために、曹操の重要な権力となった事は積極的に評価してよいとする。ここに当時の歴史の段階を二つに分けて、起義の組織の存在する時期と豪族に吸収されてからの時期とにする考え方が提出された。これは曹操が徐州その他で多くの敵人を殺傷したという非難を擁護する意味も持ち、地主内部の争いが主要矛盾になった限りでは、統一のための戦争は正当化されるからである。

――同P267-268(P107-108)

このように中国学界ではしばらく

「黄巾軍は革命軍だったのか?」

「曹操は黄巾革命の意志を継いだのか?」

という点で議論が続きましたが、最終的には現代の考え「空想的社会主義」でなんとなく説明し、なんとなくまとまった(笑)ということで終結したようです。実際には反論が許されなくなっていく空気が出来上がっただけでしょうが。


そしてその後、曹操を「革命の旗手」とする改変歴史が喧伝されていくなかで、曹操の民衆虐殺や粛清などのあらゆる蛮行が正当化されていきました。


ここの引用文中、太字の箇所には特に注目すべきです。

「革命のためならばどれほどの殺戮、どれほどの蛮行も正義として正当化される」

と言っている。

この理屈は我々ふつうの人間には理解できませんが、共産主義者などカルト思想家には自明のこととして納得できるものです。

自分たちの理想のためにどんな暴力も正当化できると頑なに信じる。そのため積極的に無実の民を虐殺するし人の肉も食べる。

これが狂気カルトの狂気カルトたるゆえんです。


曹操信者たちがよく

「我が曹操様の民衆虐殺は正しかったんだー!!」

と大合唱していて、反論者を集団で吊るし上げるなどして黙らせドン引きされていますが、彼らの異常な主張の原点はここです。

彼らはあくまでも古代人の曹操を自分たちの主義主張のために利用して、曹操へ自分たちを投影しているために殺戮を擁護しているだけです。

歴史議論を真面目に語り合う気持ちなど微塵もありません。

(おそらくネットで三国志の話を書き込んでいる曹操信者の90%以上が史書はおろか、フィクションの『三国志』を読んだことすらありません)

これこそよく覚えておくべき近代史の事実です。


善悪反転のマルクス教義を推し進めた文化大革命

きりがないので今回の引用はここまでとします。

とりあえず重要な前半は引用しました。読者の皆様も消されてしまう前に本文DLお薦めいたします。

もう一度リンクしておきます:

https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/4808


ポリコレは文化大革命です

大躍進政策の後、毛沢東によって文化大革命の号令が発せられました。あの地獄の文化破壊・人肉食パーティが始まり中国全土が血で染め抜かれます。


文化大革命で毛沢東は「曹操→善」「始皇帝→善」「劉備→悪」など、歴史人物の評価を反転するよう命令しました。

大虐殺した人物は善、民のため国を善く治めた人物は悪、という善悪反転です。

この文化大革命で三国志などの歴史改変はさらに推し進められました。蜀人物の評価も史実とは全くかけ離れた嘘で貶められていったのです。

“新解釈”と言い換えられたこの嘘八百の改変歴史は、やがて左翼たちの手によって日本にも輸入され、2000年代頃から『蒼天航路』など日本マンガを利用した宣伝活動が盛んに行われています。結果、冒頭に書いたように日本においては中華史改変がほぼ完了している状態です。


欧州で生まれたこの善悪反転の宗教教義は、今や欧米や日本など西側諸国をも侵しつつあります。

近年流行しているポリティカル・コレクトネスは上記の文化大革命と同じ流れ。最近はアサクリ炎上などで明るみとなったように、日本史もターゲットとなっています。

人類の文化は風前の灯。危急存亡の秋。

と言うよりほとんど手遅れですが、ここに引用した文書がポリコレと戦う若者たちの一助となればと願います。


当記事は引用・動画化自由。ご活用ください。