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奢るべき論争の解の一例

Twitter界隈で最近よく目にすることの中に「男が奢るべきか否か」というものがある。

性に関することは、近年様々な角度から急速に変化を遂げた。しかし、男女の平等が叫ばれ、ネットでさまざまな意見を遠慮や恥が少なく議論できるようになり、以前より性別に関係ない恋愛もあり、収入にも性差が無くなってきている今この時も、この論争は中々終結を見ない。

これはマッチングアプリの弊害だろうとも思うのだが、まだなんの感情も持たない状態でご飯に行く男女が増えたことで、極力損をしたくないという力が大きく働いてしまっている気もする。

でもこういうことって、そんな不粋なものだっただろうか。


男女でも、男男でも、女女でも、そのどれでもなくても。そこに甘い空気が萌えたち、少しずつ桃色になっていく気持ちが絡む食事は、いつだって素晴らしいものだ。

2人はこれからどうにかなるのかならないのか。秘事のような予感に満ちた空間で、お互いが一番生きるとこに近い場所で見つめ合うことができるのだから。

そんな場所で、お会計はもっと粋な、微かな予感を乗せた手紙のように機能する。

サッと財布を持ち出しその一瞬を払う。それだけで、あなたとの食事の時間は良いものでした、ありがとうございました、次に繋げたいです。と言葉にせずに伝えることができる。奢られたほうも、次に食べるときはこちらが払いますねと言うだけで次への約束が作れてしまう。そうやって甘い予感を次につなげて少しずつ育てていく。そんな口実のためにお会計は存在する。

いつの時代だって、一番カッコつけられるのは相手がお手洗いに立った時にシレッとお会計を済ませておく瞬間だし、それに気づいた相手もじゃあ次は払うから、今度はなにを食べに行きます?とニコニコと感謝と共に告げるのが一番スマートだ。間違っても、そこで1円単位で割り勘を要求したり、店を出てから払ってくれた相手に札束を押し付けたりしてはいけない。自立してるアピールは他でやればいいし、そんなことをしたら甘い予感はどこかにフッと消えてしまう。

そして、お金と引き換えに甘い駆け引きを繰り返すうちに食事の場所はどんどん変化し、フルコースやら高級肉の夜を飛び越えて、ハンバーグや、カレーや、ナポリタンや、唐揚げや、日常で食べるものに変わっていくかもしれない。共に食事する場所も2人の家となる。そこには、なんちゃら風のなんちゃらパスタのなんちゃら添えなぞ置いてる店にはない、偉大なる幸福が待っている。


奢らないぞと叫ぶ方も粋ではない、奢ってもらえないと宣う方も粋ではない。何かが始まりそうな予感を思い切ってお金と変えられるか。粋な楽しさで甘い予感を繋げていけるのか。

そんな可能性に満ちているのが、そしてもっと格好良いものであるというのが、奢るという行為の本質だと思う。




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