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プリズム劇場#022「定年退職できない人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【standfm】
https://stand.fm/episodes/668a24f174e5ac07a0b35107
【YouTube】
https://youtu.be/aDm5wvnkj1Y
【その他媒体】
https://lit.link/prismgekijo


「ほら、たいちゃん、あーんして」
「やー!」
  たいちゃんは私の持ったスプーンをはじいた。
「たいちゃん! なんてことするの!?」
 私が驚いて声を上げるとたいちゃんは泣き始めた。
「ママー!」
「ああ、ごめんごめん。大きな声出したばあばが悪かった」
 私はたいちゃんを抱きしめようとしたが、たいちゃんはそれをはたこうとして、手が私の顔に当たった。
「痛い!」
「うわあああん! ママー!」
 時計をチラリと見る。6時7分。梨奈さんが帰って来るまであと1時間以上もある。
「ママはまだお仕事だからね。ばあばとまんましよ」
「やー!」
「ただいま~」
 夫が顔を赤らめながら、上機嫌で帰って来た。
「あなた、お帰りなさい」
「やあたいちゃん、ご飯食べてたの?」
「やー!」
「そっかぁ、嫌かぁ、じゃあしょうがないな」
「あなた、何言ってるの?」
「嫌なもんな嫌なんだからしょうがないじゃないか」
「しょうがなくないわよ! 梨奈さんから頼まれているんだから、しっかり食べさせなくちゃ」
「梨奈ちゃんだってわかってくれるよ。たいちゃんはまだ赤ちゃんだよ?」
「赤ちゃんだからって好き勝手にさせることがいいことではありません!」
「ばあばはうるせぇから、じいじと食べるか」
「はあ!?」
 夫は私からたいちゃんの器とスプーンを取り上げると、たいちゃんの口元へ差し出した。
「たいちゃん、はい、あーん」
 先程まであんなに嫌がっていたたいちゃんは、きゃっきゃと言いながら夫の差し出したご飯を食べた。
「ほおら、じいじの方がいいよな」
「なんで?」
「なんでって、お前はカリカリし過ぎなんだよ。そりゃたいちゃんだって怖くて飯どころじゃねぇよ」
「違う」
「何が?」
「子供達が小さかった頃、あなたは絶対に子供達にご飯なんてあげなかったのに、どうしてたいちゃんにはあげるの?」
「は?」
「子供は母親の方がいいに決まってる。子供の世話は母親の仕事だって言って、あなた何もしてくれなかったじゃない」
「そりゃ時代が変わったんだよ。それに梨奈ちゃんと違ってお前は専業主婦だったろ」
「私はずっとやってる」
「何を?」
「家事と育児を」
「そりゃそうだろう」
「どうして?」
「どうしてって、専業主婦なんだから」
「あなたはもう定年退職してるのに、どうして私は退職できないの?」
「どうしてって、主婦は仕事じゃないだろ」
「あなたももう働いてないんだから、もうちょっとやってくれてもいいじゃない」
「馬鹿言うなよ。家事なんて簡単なこと、今更できないって言うのか?
「簡単? 簡単って言った?」
「そうだよ。家事なんて誰だってやってるんだから、簡単に決まってるだろ」
「ああそう! じゃあこれからはあなたが全部やってちょうだい! 簡単なんだから!」
 私が大きな声を出すと、たいちゃんが驚いて泣き始めた。
「おい、紀子、大きな声を出すな」
 たいちゃんをあやそうとする夫を見て、兎にも角にも腹が立った。
 私は寝室へ行き、最低限の荷物を旅行用の鞄に詰めた。階段を素早く降りると、ちょうど玄関から瞬が入って来た。
「ただいま~って母さん、どうしたの?」
「自分たちの面倒は、自分たちで見てちょうだい!」
「は? え? 何? 何かあったの?」
 私は戸惑う瞬を追い越して家を飛び出した。

「まあ、それで飛び出してきちゃったの?」
「だって、ひどいと思わない? 子供達の世話は一切しなかったくせに、孫の世話はしゃしゃり出てくるのよ」
「ダメよ、そんなことでご主人に腹を立てたら」
「武井さんは許せるって言うの!?」
「……さあ、退職する前に亡くなってしまったから」
「あ、ごめんなさい」
 私が口を閉ざすと、広い居間がシーンと静まりかえった。
 隣の家の武井さんは、大きな家に一人で暮らしている。面積だけで言えば、うちの2倍はありそうだ。ご主人を早くに亡くした上に、少し前に息子さんも亡くなったそうだ。息子さんには家族がいたようだが、ほとんど見たことがない。
「ここに一人でずっといるのは、気がおかしくならない?」
「どうして?」
「だって、あまりに静かだから」
 武井さんは驚いて部屋中を見渡した。
「そうね。そう言われれば、息子が東京へ行って、初めてこの家で一人になった時、あまりの静けさに驚いたことがあったわ」
「今は?」
「もう30年以上前の話だもの。慣れちゃった」
 そう言うと、武井さんはお茶を一口飲んだ。
「私、もしかして五月蠅い?」
 そう尋ねると、武井さんはニヤリと笑って
「ちょっとね」
 と言った。

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