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プリズム劇場#013「母の手を握る人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【standfm】
https://stand.fm/episodes/65fdad4a4a2ff529537f3e10
【YouTube】
https://youtu.be/QYPkcavczPc
【その他媒体】
https://lit.link/prismgekijo


 俺の手はカタカタと小刻みに震えていた。きっとあと1時間もすれば、俺がいなくなった事に劇団のメンバーは気づくだろう。吉田さんはきっとぶち切れて大暴れするに違いない。その辺にいる劇団員に無差別に殴りかかるかもしれない。それでも俺は、行くしかない。震える手でスマホを取り出し、電源を切った。

「失礼します」
 俺は恐る恐る病室の扉を開けた。中では6台のベッドが並んでおり、それぞれテレビを見たり、見舞客と談笑したりしている。一番奥のベッドだけ、周りと比べひっそりとしていた。
「母さん」
 母はすうすうと寝息を立てている。特に苦しそうな様子はない。それだけはよかった。ベッドの側の椅子に腰を掛ける。鞄を開けて分厚い封筒を握りしめる。売り上げ300万円。全部ここにある。
「典弘……?」
「母さん、俺だよ」
 俺は母の手をギュッと握る。母さんはゆっくり起き上がる。
「来てたの? 公演は?」
「劇団のみんなが何とかしてくれるから大丈夫だよ」
「そう。ちゃんとご飯食べてるの? お金足りてる?」
「大丈夫だよ、大丈夫。母さんの入院代は、俺が持ってきたから」
 母は驚いた顔をした。
「大丈夫よ。保険があるし、退院したらまた働くから」
「いいんだよ、もう。そんな体で働かなくて。これからは俺がいるから」「そんな事言ったって、あんたこれまでまともな仕事に着いたことないのに、一体何の仕事をするの?」

 俺は何も言えなかった。18で家を飛び出して役者を目指した。色んな研究所を渡り歩いたが、芽が出ることはなく、吉田さんに裏方として声を掛けられた。それでも芝居に関われるならと、制作として20年、劇団に尽くして来た。劇団から給料を貰った事はない。深夜の清掃のバイトで何とか食いつないで来た。いや、正確には食いつなげていない。公演の度にバイトを休み、収入が足りなくなり、督促状が届き、母に泣きついた。その度に母は仕送りをしてくれた。実家を売った事を知ったのは、母が引っ越してから2年後だった。

「あんたの顔見るのも何だか久しぶりね」
 母は俺の手をぎゅっと握り返して来た。
 母は昼は工場で、夜は介護施設の警備の仕事で金を稼ぎ、ずっと俺に仕送りをしてくれた。俺は劇団員から団員費を徴収し、公演の度に赤字にならないようにノルマを課した。劇団員が借金まみれになっていると知っていた。自分は母のスネをかじっているくせに、金を払えない劇団員を責め立てた。いつかきっと、報われると思ってた。
「あんたは東京に戻って芝居を続けな」
 俺は首を横に振った。
「いいんだ。いいんだよ」
 俺は項垂れていく。
「あたしはあんたがやりたいことやって、幸せならいいんだよ」
「母さん、幸せって何?」
「あたしはあんたが元気でいてくれたら幸せだよ」「俺も母さんが元気だったら幸せだよ」
「じゃあ、悪いことしちまったねえ」
 そうじゃない。そういうことじゃない。安心して入院すらさせてやれない事に、嫌気が差しているだけだ。
 俺は45にもなって、母に縋り付いて泣いた。


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