『ドライビングMISSデイジー』の「人種を超えた友情」への疑問

■ Watching:『ドライビングMISSデイジー』

この作品のあらすじや作品紹介では「友情」という言葉が使われているものがほとんどなんだけど、これを「友情」という言葉で説明してしまうんだ?!マジ?!というのが率直な感想。

高齢になった白人(ユダヤ人)のミス・デイジーが運転を誤るところから物語は始まる。そして、それを不安に思った息子が、母のために黒人の運転手ホークを雇う。初めは強く反発していたミス・デイジーも、ホークの人柄に絆されて次第に…というストーリー展開。『最強のふたり』や『グリーンブック』などと同様、「白人×黒人」の「金持ち×運転手」という構図の作品。1989年製作の本作は、中でも古典的存在とも言えるかもしれない。人種差別が法的に許されていた1940年代から公民権法が施行された1970年代のアメリカ南部が舞台である。

2人が出会った当初のミス・デイジーは、現代を生きている私の感覚からいうととにかく酷い。「私は差別なんかしない」と言うのでどんなもんかと思えば、「黒人に世話なんてさせなかった」と。これは「黒人を奴隷のように扱わない」ということではなく、「黒人を自分に近づかせない」という意味で絶句。息子の方も相手が黒人とあれば、年齢等に関係なく「当然自分が上である」という態度で接する。それがあまりに自然すぎて、傲慢とも感じられないほどだ。とはいえ「仕事をさせてお金を払う」ということはしているのでまだマシに見える。そもそもの社会の構造的にそうなってしまっているという点で罪が軽く思えなくもない(まあ反吐だが)。

それでも25年という長い年月をホークと共に過ごしたことによって、そして公民権運動等の世間の動きも相まって、ミス・デイジーも態度を軟化させる。「黒人に世話なんてさせない」と言っていた人が、ホークに読み書きを教えたり、クリスマスプレゼントを渡したり、キング牧師の演説を聞きに行ったりする。これはミス・デイジーとしては目を見張るような変化。「あなたは一番のお友達よ」という言葉までホークに贈る。

ラストシーンでは、老人ホームで暮らすミス・デイジーを、これまた高齢になったホークが訪れる。2人は長年の友人のように会話をする。そしてホークがパンプキンパイをスプーンですくってミス・デイジーの口元に運ぶところで物語は幕を閉じる。

ところでキング牧師の演説が行われた1966年。聴衆の中には確かに黒人もいたけど、入り口で入場を断られている黒人がいたり、給仕している人の多くは黒人だったりで、演説を聞ける黒人はきっと一握りにすぎないのだろうなという印象。黒人の人権についてと表向きは盛り上がっているけれど、現実の世界にその成果が降りてくるには程遠そうであった。

その頃と1973年の老人ホームでのシーンを比較してみる。2人の後ろに映る人々を見てみると、老人ホームで働いているスタッフは黒人ばかり。白人の高齢者の世話を黒人がしているという構図。1966年と状況は大きく変わっていないように見える。

そしてパンプキンパイを食べさせてもらうミス・デイジーとそれを口元に運ぶホーク。2人がやっていることは、その背後で起こっていることと何が違うんだろう?何も変わらないのではないか?と思ってしまった。もし、このシーンで食べる方・食べさせる方が逆だったとしたら私も心から「これは友情の物語!」と言えたと思うのだけど…

ミス・デイジーの態度の軟化についても、ホークの明朗で真面目な性格あってのものだろうと思う。だから、この友情はホークの人柄の賜物!と言いたいところだけど、ホークのこのような振る舞いも間違っても敵意があると感じられないように意識して生きてきたからこそ身についたものだったりするのかなあ…というところまで考えてしまうと、とてもじゃないけど無邪気ではいられないというかなんというか…

現実を見れば明らかだが、そう簡単に物事は変わっていかない。この作品はそういう皮肉を表現しているのではないかと私は受け取った。だから「友情を描いた作品」と言われるとかなり違和感を感じる。実際のところ、製作者の意図としてはどうなんだろう。

ミス・デイジーもユダヤ人で、差別される対象であるということは度外視できないものの、なあ…

(2022.04.19)

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