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お粥が食べたくなった夜。時間がわたしに寄り添ってくれる。

年に2〜3度、ふと食べたくなって中国粥をつくる。
鶏がらスープか貝柱スープのどちらかで炊いた中国粥は、とろんとしていて、やさしくて、あったかい。

日本でお粥といえば病人の食事の代名詞みたいなところがあるけれど、最近観た韓国ドラマでも体調を崩したひとにお粥を買って帰るシーンがどこかで必ず出てきていたっけ(何本か観たけれど、わたしが観たドラマには必ずその描写があった)。
儒教の影響を受けた国の文化なのかしら。

実家にいたころはお粥=病気のイメージだったから自ら欲したことはあまりなかったけれど(お母さんごめんね汗)

昔ホテル勤めをしていたころに、中国料理レストランでシェフから「試食してみて」と言われて初めて食べた中国粥が、わたしのお粥の概念を根底から覆した。

正直、ここまで「食事に向き合える」食事を、わたしは知らない。
炊きたてのお粥は(当たり前だけれど)物凄く熱いうえになかなか冷めない。当然「ひとくち」はいつもより小さくなる。
お米がゆるくとろけている分、付け合わせの揚げワンタンや青菜の炒め、白ごまのつぶつぶの食感さえいつもより軽快に感じる。塩味もいつもより上品で貴重なものに感じられる。

わたしは食べるスピードがひとより遅く、誰かと食事するときは大抵かなり気を遣う。相手が先に食べ終わってしまい、待たせることになってしまうから。

でもお粥は誰にとっても爆速で食べることは難しいタイプの食事なので、少しだけ時間がわたしに歩幅を合わせてくれているような、やわらかさを感じるのだ。
(※いままでフードファイターさんと食事したことはないのでもしかして激アツのお粥でも秒で爆食する方がいらっしゃったらごめんなさい)

今日、ふと中国粥が食べたい、となって、早速炊くことにした。
前のおうちには圧力鍋があったので比較的早く調理できたけれど、今日は普通の鍋で。45分くらい、キッチンでぼーっと様子を見ながら、コトコトと。

今回の付け合わせは、パクチー、小松菜炒め、そしてホルモン焼きを少々。
火を止めて蒸らす間じゅう、表面でポコポコ沸いているお粥を眺める。いとおしい。

ひとくち。
また、ひとくち。
時間がゆっくり流れる。

付け合わせも欲張らずに、ほんのちょっとずつお粥にのせて。
また、ひとくち。
口の中で、温度も味も食感も、いろいろ。
掬ったお粥が思ったより熱くて舌の表面がヒリヒリするのも、なんだかちょっと楽しい。

食べ始めは何回おかわりしても満腹にならないような気がしたのに、気がつくとお鍋の半分も食べないうちに満足してしまっている。

心が満足したんだな、きっと。

ごちそうさま。

中国粥炊こうかな、と思うときは、いまは自分の時間を少し贅沢に使うべきだよ、いまあなた少し余裕をなくしてるよ、と心がわたしをたしなめているときなのかもしれない
と、さっきお粥を炊きながら思った。

次またいつ中国粥炊こうかなと思うかは分からないけれど(いやもし上記の仮説が正しいとしたらむしろそう思わないほうが心は健全だともいえるけれど)
次そう思う日がやってきたら。

最近少し無理していた?
自分の気持ちに嘘をついたりした?
ちゃんと休めてる?
日々に満足してる?
と、
自分と向き合う時間にしようと思う。

中国粥は、やっぱり今回もとても美味しい。

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