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僕の小旅行⑤

…記憶の波が溢れ出し、僕の脳裏を埋め尽くしていった。

ゆきちゃん…そう、幼馴染みだった女の子だ。あの日、僕らは古い実家の土蔵で遊んでいた。古びた土蔵で中は薄暗くて気味が悪かった。湿気もひどくてカビくさくて、普段は近寄りもしなかった。でもあの日は、誰かが秘密基地だ、探検だって言い出したんだ。僕は正直嫌だったけど、でも断れなかった。

友だちの誰かが持ってきたマッチで明かりをつけたら土蔵の中が明るくなって、カビくさい匂いはマッチのすすけた匂いに変わった。でもいつの間にか床に落ちた火が布きれに燃え広がって、土蔵は瞬く間に炎に包まれたんだ。驚いた僕らは逃げだそうとした。でもゆきちゃんが転んで、白いシャツの背中に火が燃え移った。「熱い、熱い、」ゆきちゃんはそう言って泣き叫んでいた。炎が揺れて、橙色の明かりに照らされたゆきちゃんの影が怖いくらいに大きかった。夢中で僕は雪ちゃんの手を握って、土蔵を飛び出すと二人ですぐそばを流れていた川に飛び込んだんだ。確か大雨の後で水の量が多かった。背中の火はすぐに消えたけど、気付いたら雪ちゃんの姿が見えなくて、僕は水の中をもがきながら必死に探そうとした。手を動かしても全然顔が浮かばなくて、苦しかった。たくさん水を飲んで、苦しくて、眠くなった頃に僕は引き上げられた。近所に住んでて、良く家に来ていた御用使いのお兄さんだった。角刈りの真っ黒な顔で、目と歯だけが白くて、大丈夫か、大丈夫か、大きな声でそう叫んでいた。

しばらく経って、ゆきちゃんが見つかった。でも河原に横たわったまま顔に布がかけられていて、隣でゆきちゃんのお母さんが大声で泣いていた。僕は立ち上る黒い煙と、木材の燃えた残り香と、あちこちが黒くなった手足を順番に見て感じていた。頭が回らず、何があったのかも分からなかった。お父さんも、お母さんも、何も言わずに僕を病院に連れて行った。その帰りに僕はお婆ちゃんと電車に乗せられて遠くの叔父さんの家に連れて行かれたんだ。何もなかったかのように、誰もこの話はしなかった。僕が話そうにも、誰も聞いてくれなかった。まるで何もなかったように、その事は誰にも触れられないまま過ぎて、僕はいつしか忘れ去ってしまったんだ。僕はこんな大事なことをすっかり思い出せずにいた…

目覚めると、僕はあの河原に寝転がっていた。どのくらい経ったのだろう、石が食い込むようで背骨や手足が痛かった。でもその痛みが僕に、これが現実の世界だと教えてくれた。僕はすっかり頭痛のことは忘れていて、取り戻した記憶の束を抱えきれずに苦しんでいた。ゆきちゃんがあの日炎に巻き込まれて、二人で川に飛び込んで、そして二人とも溺れたんだ。僕だけが助けられて、ゆきちゃんは遠くに行ってしまった。そしてその記憶をすっかりなくしたまま、僕はこんなにも歳を取ってしまった…

何かしら、切なくて虚しかった。周りの人達の優しさとか、気遣いとか、そしてそれを無にするようなボクの人生とか、不意に戻った記憶は僕の現実を貪るように喰らい尽くそうとしていた。僕は何をしている?どうしたい。どうして此処にいるんだ。どうして記憶を取り戻したんだ。生きたいのか、立ち向かいたいのか、変えたいのか、心は何も定まらなかった。

僕はゆきちゃんを助けようとして、できなかった。でもあれからずっと、僕のことをそっと支えてくれていたんだ。ふと雪ちゃんの声が聞こえたような気がして、僕は現実の世界に帰ろう、そう思った。




(イラスト ふうちゃん さん)


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