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いすが足りなかったら「半ケツ」でおしりあい!

■シェアの文化

至る場所、場面で物が足りていないマラウイではものをシェアすることが前提で社会が成り立っているといっても過言ではないだろう。キリスト教の影響もあるのだろうが、助け合わないと生活できないというマラウイが置かれている厳しい現状も大きな理由の1つだろう。

■学校で足りない机といす

小学校で机やいすがなく、地べたにそのまま座って授業を受ける光景は、マラウイにしばらく住むと、見慣れすぎてなんとも思わなくなってしまう。小学校でも学年が上がるにつれて、また中高等学校、大学と進学するにつれて、施設が少しずつ充実したものになる傾向にはあるが、マラウイではどこも十分とは言えない。

【2017年9月 リロングウェ教員養成大学附属小学校にて↓】

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【2017年10月 リロングウェ郊外農村部のセカンダリースクールにて(日本の中高等学校に相当)理科の授業↓】

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教員養成大学の机といすも例外ではない。さすがに大学設立当初は十分にあったのだと思うが、盗まれたり、壊れたりして数が減り、2019年時点では人数分ない教室も多い。

【2018年1月 リロングウェ教員養成大学にて(算数教育法の授業)↓】

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■授業をサボる大学生

マラウイでは高校を卒業し、その先の大学や専門学校に進める人の割合はたったの1%だと言われている。そんな狭き門を潜り抜け、運にも恵まれてやっと入ってきたリロングウェ教員養成大学でさえも、授業をサボる学生は一定数いた。大学で授業をサボる学生がいるというのは程度の差こそあれ、日本のそれに通じるものがある。

私は学生寮の一角に住んでいたということもあり、授業の合間に教材を取りに部屋に戻ると、服も着替えずに寮内をうろうろしていたり、ラジオで音楽を聴く音が漏れ聞こえたりしてきたから、サボり実態を目の当たりにしていた。

あまりにも出席率が悪いと学校全体の問題になり、大学の規律担当の教官が寮を回り、学生たちを教室に追い立てるということも度々行っていた。私も追い立てを手伝ったことがある。

学費が払えなくてドロップアウトする学生がいたり、本当の体調不良で寮で休んでいる学生もいたりするから、そもそも全員出席になることは少ないのだが、「追い立て」で出席率はだいぶ向上する。サボっていた一部の学生たちも、注意された直後はさすがに頑張ろうと思うのだろう。

■みんなが出席すると逆に困ること

規律が正され、しっかり出席する学生が増えたら増えたで、逆に困ることがある。教室が満員になり、座れない学生が出てくるのだ。もともと教室に学生数分の机といすがないのが原因だ。

日本ならしょうがないから立ち見、ということになるか、入室制限みたいなことになるのかもしれないが、マラウイではそれは最後の手段。そう簡単に立ち見はせずに、無理にでもスペースを見つけ出し、どこかに腰掛けようとするからだ。

こんな具合だ。

①満員の教室に遅れて入ってきた学生は、すでに席を確保している学生の近くに無言のままおもむろに歩み寄る。
②歩み寄ってこられた学生もまた無言のまま、少しずれてスペースをつくる。
③そして、何事もなかったかのように「半ケツ」状態で2人で1つのいすに座る。
④少し大きめのいすならば、3人で「3分の1ケツ」になることだって可能だ。

【2018年2月 リロングウェ教員養成大学にて(表現芸術科の授業)↓】

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「いや、日本だってそういうことありますよ」と思うかもしれない。確かにそうだ。仲の良い学生同士ならそういうこともする可能性だってある。

でも、私が小学校教員をしていた時、小学生が教室のいすやパイプ椅子に「半ケツ」状態で2人座っているのを一度も目にしたことはない。日本にはいすが足りないという状況が少ないから当然かもしれないが、それでもふとした場面でいすが足りないことはある。そうした場合には、子どもたちは床に座るか、立っている。

ここで私が強調したいことは、「半ケツ」で座っているということではなく、「半ケツ」で座るまでの一連の動作が実に自然だということである。物が足りないマラウイでは、譲り合うこと、シェアすることが当たり前だから、いすのスペースを少し譲るくらいのことでわざわざお願いしたり、お礼を言ったりすることはない。

そして、このシェア状態を何時間でもキープできる忍耐力がある。

■乗り合いバスや乗り合いタクシーでも

市内を移動するときに利用する乗り合いタクシーや乗り合いバスに乗り込むときも、座席をシート数以上に詰めて座ることは日常茶飯事だ。そんな時も、「ありがとう」はなく、自然に詰めて、自然に座る。

空気を吸って吐く、くらいの自然な行為になっているのだろう。

※ある日の乗り合いバスで。向かいのおじさんと脚がパズルみたいに組み合った。膝が股間にくいこんでしまっているこの時でさえ、お互い何事もなかったかのように平然として過ごすのがマラウイ流。↓

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※ある日の乗り合いタクシーで。普通乗用車の運転席と助手席に、自分を含めおじさん4人が身を寄せるという、日本ではあり得ない状況。一番奥の運転手は奥から2番目のおじさんのひざの上にちょこんと乗って運転。非常に危険な状況だが、これを逃がしたら、次の乗り合いタクシーが何時間後に出発するか分からないから、とりあえず乗るしかない。↓

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平然と乗っているように見えるが、クーラーが効かないこともあり、車内は相当暑い。体が接している部分がお互いの汗でジンワリ湿ってくるのが分かるが、それが普通。嫌な顔一つ見せない。

※上の写真の10分後。後部座席もパンパンに人が乗っていたため、案の定パンクして立ち往生。事故を起こす前に停まって、むしろ良かったのかもしれない。↓

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■「自分のもの」ではなくシェアするもの

「ありがとう」を口にしたり態度に表したりして感謝するのも大事なのだが、それとはほぼ真逆の、分け合うのが前提の社会も素敵だなと思う。

慣れないと、自分の物も当たり前に借りて使われたり、貸しても返ってこないことがあったりしてイライラすることも多々あるのだが、それは「自分のもの」という占有感が強いからなのだろう。

持っている人が持っていない人に分けるのが当然と考えるこの国では、そんなことでイライラしていること自体がおかしなことなのかもしれない。

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