こころ
巡り合わせ
文学は不思議な巡り合わせが有ると感じる事がある。
それは不朽の名作であったり、そうでなかったりもするけれど、確かにその瞬間は有る。
少なからず、誰にでもそういった経験があるのではないかと予想する。
先に記述した通り、私は今きちんと私自身と向き合わなければならない時である。
そんな時に、吸い寄せられるように手に取ったのが、この本だ。
こころと私
ここ最近、他人に裏切られることが多くあった。
声を大にして騒ぎたてたのは弱さからだったのかもしれない。
裏切りを許さない事が強さだと考えていた為、このつらさを当人の目の前に突き立てて、理解してもらおうとするこころの強さ、つまり弱さを見せる覚悟がなかった。
だからこうして苦しみに囲われてしまう。
強がって憤るよりもきっと、哀しいと、苦しいと泣いたら良かったのだ。
そして、自分自身も例外なく、こころから他人を裏切ってはいなかったか?と考える。
私が忌み嫌うそういった人たちの同じそれを、ただ許されてきただけではなかっただろうか。
尤も、既に遠くへ行ってしまった数多の人たちに、それを問いただすことは叶わないのだが。
私と他人との境界線
いま誰も全く信頼できない私は、いつかの"先生"の様に、他人ばかり細かく観察して、自分を顧みることを上手にできていないだろう。
たった一人も信じたいと思える人間がいない。
優しく手を差し伸べてくれるような人達には全く無礼なことだけれど、どうしてもその裏に何か恐ろしいものがあるのではと勘繰ってしまう。
それは哀しいことだ。
それは淋しいことだ。
ただじっとこの苦しみの、細いようで随分太い針を、からだに突き刺して動けないでいる。
そこから己の血が流れているかの判別も付かない。大袈裟に言ってみれば、生きているのか、死んでいるのか、そしてこれから生きていく意味がわからないでいるのだ。
生きる意味がわからないのは、きっと私だけではないだろう。
人間は少し狂っていなければ、或いは強く信仰する何かの存在を心の底から信じ、祈り、そうなるに決まっているのだと思い込む事でしか己の運命を予測することは決してできないのだから。
緩やかな答え合わせ
いまこうして活字と照らし合わせながら己を顧みて、やっとつらいと思えるのが救いである。
感銘や、共感や、もっと奥深くのドロドロとした感情から、やっと涙できるのが救いである。
人間関係というヤスリで削り取られていくばかりのこころは、確かに今痛むのだということを認識できるからだ。
私は、私のからだに染み渡らせた言葉たちを、ここに記し、それを恥じることを辞めるのだ。
たとえ他人の目に、どれだけ自惚れた悲劇を演じているように映ろうが、頭の上から強く見下されようが、こうして文字に起こしていくつもりだ。
そうして、ほんの少しずつ自分を許していこうと、今この時にこの本に出逢えたことを、不思議な気持ちで、感謝するのだ。
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