どこまでも厳しく、それでいて優しい映画、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
高校2年生のころ、シカゴに引っ越しました。そのころといえば、友だちといるのが最も楽しい時期。
別れが名残惜しくて、別れをするのに必死で、シカゴでの先の生活なんて、考える余裕がありませんでした。
シカゴ行きの飛行機に乗って初めて、「で、シカゴってアメリカのどこらへんにあるんだっけ?」という思考にたどり着くものの、携帯は使えない機内、ガイドブックも持っていない私。
画面に映る「あと何マイルです」という飛行機の映像(あれ、何て言うんだっけ?)を見ながら、「シカゴってこんな真ん中にあるのか〜」と思っていたのを思い出します。
なんでこんな話をしているのかというと、「あれ、これって、イギリスの話じゃないの?」と思いながら『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を見始めたから。
どんよりとした雲に、寒そうな水面に、ちらちらと降る雪...てっきりマンチェスターだと思っていたら、アメリカ的発音や、アメリカ的スラングや、アメリカ的家や建物が出てくるから、「あれ、おかしい...でもこれはアメリカでしかない」と混乱しながらストーリーを追っていました。
見終わって初めて、グーグルマップを開き、マンチェスターと調べ、ここで初めて、「海のそばのマンチェスター」ではなく、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という地名だったということを知る私。
ボストンの近くだそう。場所を確認してからこの映画を見ると、スムーズにストーリーに入れます笑
***
前置きが長くなりました。そんな映画、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。
ボストン郊外で便利屋として生計を立てている主人公が、兄の死をきっかけに故郷の“マンチェスター・バイ・ザ・シー”へと戻り、16歳の甥の面倒を見ながら過去の悲劇と向き合っていく―。
映画、公式ツイッターより。
見終わったあとはどんよりしてしまいましたが、一晩経つととても良い映画だったと思います。後からじわじわくる作品。
リアリティあふれる描写
この映画は終始、リアリティに溢れています。
ネタバレしてもあまり支障がない映画なのでネタバレしますが、主人公・リーが、暖炉の火の不注意によって家族を失うという“ありふれた”事故(=彼の「過去の悲劇」)も、16歳のリーの甥っ子・パトリックが、父を失っても感情をあまり表立って出さないところも、リーが離婚した元妻と偶然再開し、別れたことを謝られるものの、聞いていられず立ち去るところも、すごく生々しく、現実的でした。
よくある映画や小説やマンガだと、こういった一つ一つが(悪く言うと)「ドラマにさせられている」んですよね。
だから、人の死の悲しみは、泣いたり叫んだりなどの大げさな振る舞いになるし、「悲しい過去」を明かすときも、その話を小出しにしたり、引っ張っていって見てる者に「一体なにがあるんだろう」と思わせたり、主人公に当時のことを語らせたりする。
でも、この映画は、そういった現実にありそうな人間の営みを「ドラマ」や「物語」に回収していまうことなく、そのままを見せようとする。
だから、物語に起伏がなくても、魅せる映画になっているんだと思います。
この映画の、一番すごいなと思った描写は、16歳のパトリックが、道に落ちている木の枝を拾って、柵にかんかん、かんかんとぶつけながら歩いていくところ。
↑このシーン、見ればすごく既視感があるというか、「そういえば、男の子ってこういうことするよな〜!」と思うのですが、ふつう、リアリティを出そうと思って、こんな仕草は出てこない。
そういう、見れば既視感があるけれど、ありすぎて映画ではこぼれおちる、日常のどうってことない仕草を、この映画はていねいに掬いあげている。
その積み重ねが、この映画で起こっていることを「画面のなかの他人事」ではなく「自分にも起こりうること」に変えているんだと思います。
このあたりは、去年公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』に通ずるものがありますね。この世界〜については、次回また投稿します。
どこまでも厳しく、それでいて優しい映画
主人公のリーは、甥っ子パトリックの後見人になったので、パトリックと一緒に住むために故郷・マンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ってくるという決断を迫られます。
でも、リーにとっては自分のせいで子どもを失い、奥さんとも別れた場所なので、帰ってきたがりません。
私は映画を見ながら、最終的には帰ってきてパトリックと一緒に住むんだろうな〜と思っていたのですが、そうではありませんでした。
結局、リーはもといたボストンに帰り、パトリックは知人に預けられ、マンチェスター・バイ・ザ・シーに住み続けます。
途中、リーはパトリックに、どうして帰ってきて一緒に住めないの?と尋ねます。そんな彼にリーは、「ごめん、克服できないんだ」と言う。
初めて、リーが素直に、自分の弱みを見せた瞬間かもしれません。
この映画は、どこまでも厳しい。簡単に2時間ちょっとで「つらい過去を克服できました」とはならない。「奥さんとよりを戻しました」とはならない。
映画の中でも、現実と同じような時間の流れ方をする。カタルシスは、起きないのだ。
でも、最後のシーンで、リーはボストン内で引っ越し、「一部屋用意しておく」とパトリックに伝えます。
家族を失ったあと、ずっと一人で生きてきたリー。弱みを見せることも、誰かに寄りかかることも、していなかった。自分一人分のスペースしか、持ってこなかった。
そんなリーが、パトリックがいつでも来れるようにと、空き部屋を用意しておく。
事故があったあと、止まっていたリーの時間が動き出した瞬間でした。
子どもを失ったリーと、父を失ったパトリック。互いが少しずつ、お互いが失った大切な人の、代わりになろうと、歩み寄る。
リーの時間が動き出すためには、パトリックの存在は、この映画においては必要不可欠だったんだと思います。
アメリカのティーンズの息苦しさ
これは余談ですが、私はパトリックの年齢と同じときにアメリカにいたので、なんだかパトリックが抱いていそうな鬱屈とした気持ちが、伝わってきて、別の意味で苦しい映画でした(良い意味で)。
放課後、ホッケーの練習しにいくのも、彼女のところへ遊びに行くのも、朝学校へ行くのも、母親に会いに行くのも、リーの送り迎えが必要。
郊外に住むから、特に遊び場所もなく、遊ぶとしても誰かの家。
一定の年齢までは子どもを家に残して外出してはいけないという法律があったり、どこへ行くにも親の送り迎えが必要だったりと、意外にも子どもの自由はありません。
私も、アメリカに行くまではめちゃくちゃ自由な行動ができていたので、最初行ったときは、どこへ行くのにも誰とどこへ行って、何時に迎えにきて、と言わなければいけないので、とても窮屈だったのを覚えています。
映画を見終わってどんよりしたのも、そんなアメリカ生活を思い出したから、というのもあるかもしれません。もちろん、楽しいこともあったけれど。
パトリックは、自分が16歳で、18歳の成人年齢に達するまで、リーの「監視下」に置かれたり、財産を管理されたりするので、余計自分が大人じゃないことに、腹立っていたのではないでしょうか。
リーの息苦しさだけでなく、パトリックの息苦しさに注目してこの映画を見るのもまた、示唆に富んでいると思います。
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見終わったあとどんよりするので、デートや友だちとわいわい見に行くのはあんまりすすめられませんが、家族と見たり、一人でどっぷり映画の世界にひたったりするにはおすすめです。
それでは、また。
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(トップ画像:映画公式ツイッター)
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