水面下

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水面下vol.8

キッチンからコーヒーを片手にして、彼女は戻ってきた。

リビングのいつもの椅子に座り、どこからともなく読みかけの本を出してきて、それを読んでいる。

あまりに深く潜っているので、僕はいつものことだと思いつつも、せっかく豆から挽いたコーヒーが冷めてしまうんじゃないかと、気になった。

やがて彼女が顔を上げた。水面に上がってきたみたいだ。僕は彼女の目と出会った。僕は口を開く。

「君はいつも本ばかり読

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今日のごはんはさっと鮭を焼くだけです。

水面下vol.7

帰宅したとたんに、雨が上がった。日曜日に走ったから、神様が怒ったのかもしれない。

そう彼女に言うと、「怒る神様って、前近代的よね」と言った。

彼女は時々、学術的に定義が難しい言葉を、事も無げに形容詞に使う。

前近代的ってどういうこと、と尋ねると不機嫌になるに決まっているので、辞めておく。

「ねえ、どうして日曜に洗濯するの」

「土曜日の朝早くに起きたくないからだよ」

「起きてからやればい

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今日のごはんは台湾トマト麺です。
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水面下vol.6

僕は雨の日はそんなに好きではない。幸いにも霧雨程度になったので、これ幸いにとジョギングに行く。彼女はダイエット中らしく、珍しくはりきってついてきた。

「ねえ」と彼女は言った。

「なあに」と僕は言う。

「世界が数字だけでできてたらいいのにって思うことある?」

「デジタルの世界みたいに?」

「そう、デジタルの世界みたいに」

「僕はシンプルで悪くないかなって思うけれど」

「シンプル、ねえ」

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今日のごはんは台湾トマト麺です。
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水面下 vol.5

彼女が初めて実家に来た時、僕の母は「少し変わった子ね」と言った。

「そうかな」

「悪い意味じゃないわよ。なんかこう、少し独特ね」

「少し独特」だと「独特」ではないのではないか、なんて僕は思ってしまったのだけれど、そんなことを言うと母が不機嫌になるので、辞めて置く。

「まあ、ゆっくり喋る子ではある」

「そうよ。あなただってだいぶ、ゆっくり喋るようになったじゃない」

「そうかな」

「一緒

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今日のごはんは台湾トマト麺です。

水面下 vol.4

「おかえり」と僕は言った。

「ただいま」と彼女は言う。

「クロワッサンは買えた?」

「ええ。あなたにはフランスパン」

「雨はひどくなかった」

「大丈夫だったわ。焼きたてだったの。あんまり冷めてないといいのだけれど」

「コーヒーを入れようか」

「ええ、お願い」

「せっかくだし、豆から挽くやつにする?」

「そうね。日曜日だものね」

「それとも紅茶にする?」

「ううん。紅茶にはマド

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今日のごはんはなすと鶏肉のみぞれ煮です。
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水面下 vol.3

僕は洗濯が嫌いな方ではない。あの決まった手順を淡々とこなすのが好きなのだ。細いハンガーにはズボン太いハンガーにはシャツ。洗濯ばさみがたくさんついている、何と言ったかあのやつにも決まりはある。下着は真ん中、靴下は外側。勿論、靴下のペア同士は隣り合っていないといけない。

というようなことを彼女に初めて喋ったとき、彼女は持っていたマグカップをテーブルに置いて、笑った。

「そんなに面白かった」

「え

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今日のごはんはなすと鶏肉のみぞれ煮です。
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水面下 vol.2

彼女はとにかくゆっくりと喋る。彼女の世界と僕の世界のテンポはどことなくずれていて、つまりボタンを一つかけ間違えた世界に互いに住んでいる。

僕が焦っていて言葉を端折ったり、怒っていて言葉を乱暴に扱ったり、悲しんでいて言葉を失ったりしたとき、彼女はとても丁寧に、僕が落とした言葉を一つ一つ拾う。

そして埃をそっとふきとり、彼女の柔らかい手の盆に乗せて渡してくれるのだ。

「おはよう」と彼女が言った。

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今日のごはんはさっと鮭を焼くだけです。
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水面下 vol.1

「湖畔がいいわ」と彼女は言った。

「湖畔?」

「そう、湖畔。湖のほとり。」

「湖か」

「そうよ。興味ないかしら」

「興味なくはないけれど」

「湖畔で、何を」

「そうねえ」

「まあしろなワンピースを着るのよ。そして、洗濯をするの」

「洗濯」

「そう、洗濯」

「洗うのも白い服?」

「ええ、白い服しか洗わないの」

「僕のシャツは洗ってはくれないの?」

「そうねえ」

「まあし

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今日のごはんはさっと鮭を焼くだけです。
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